White Noiz

諸々。

承天寺

博多でも屈指の名刹。承天寺臨済宗東福寺派の古刹ですな。博多駅前に現存しております。

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昨日アップしてた石碑は何かっつーと、写真の通り山の中にあり、博多駅前にある訳じゃない。どこにあるかってぇと、太宰府糟屋郡宇美町の境目あたりにあります。ちょうど宝満山の北側ですな。

さて、ここからが問題でして。なぜ博多の名刹の名を刻んだ石碑が太宰府にあるのか?という謎が浮かび上がるわけです。こりゃ調べないかんめぇ。で、やっぱりWikipediaをw 

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/承天寺

あーね。なるほどね。少弐氏ね。太宰府だもんね。少弐氏縁の寺院なのねー。

太宰府って、中世が物の見事に歴史の教科書から抜け落ちてるんすよ。それこそ、平安時代菅原道真の話以降、まーったく触れられない。つーか、出てくるのは博多で文化貿易中心。福岡の歴史なんて触れられてるのがあっても鎌倉の元寇。室町飛ばしていきなり戦国時代に龍造寺ですよ。龍造寺言うても鉄心のじいちゃんじゃないですよ。修羅の門

ほんじゃ平安時代から戦国時代まで空白やったん?ってそんなわきゃない。鎮西の要所である太宰府がガラ空きっておかしいでしょ。鎮西探題でちゃんと仕事してる連中がいた訳ですよ。それが少弐氏。この少弐氏が承天寺を創建した。つまり、太宰府だけでなく博多も、更に言うならば福岡近隣をこの少弐氏が治めてたわけですね。

この少弐氏、源流は藤原道長の後裔だとかで、元々は武蔵国の武藤姓。源平合戦では平家方として参戦。一ノ谷の戦いにて敗れて源氏に投降。鎌倉幕府より太宰少弐という役所をもらって福岡に入るわけですな。この役所がそのまま姓となり、少弐氏を名乗ります。この少弐氏が日本史として出てくるのは先程も書いた元寇。ボコボコにやられて家長やら跡取り息子なんかが死んでしまいます。そんな苦労の甲斐もあり、鎌倉幕府に優遇されて鎌倉時代に福岡で栄華を誇ります。

室町時代に入ると、敗走してきた足利尊氏を奉じたりして頑張りますが、南北朝の政争に巻き込まれ、山口の大内氏の度重なる北九州侵略に応戦してたら、熊本の菊池氏に太宰府を落とされて佐賀に逃げ延びます。この末裔が佐賀の肥前鍋島なのだそうな。そのまま江戸時代に?と思いきや、戦国時代は甘くない。龍造寺に謀反を起こされ、少弐氏は滅んでしまうわけですが、一応逃げ延びた人達はいるそうです。

その後、福岡は龍造寺、大友宗麟、高橋(立花)等が鎬を削り、島津がちょっかいかけてきたりもしたけど、江戸時代になって黒田官兵衛がやってくる、というお話であります。

 

郷土史を調べてたら、太宰府の少弐氏ってのは結構頻繁に出てきてて、鎌倉時代太宰府を寺院文化の拠点にした功績とか出てきます。今でも太宰府には寺院が多いんだけど、当時は数百もの寺院が建ち並んでたとか。なかなか日本史の中ではパッとしない少弐氏ではありますが、その政治的な手腕はなかなかのものだったのではなかろーかと推察する次第であります。

以上、ざっくり太宰府と少弐氏のお話でございました。