White Noiz

諸々。

バンダースナッチ (1)

「来ル七月十日、高等学校野球選手権県大会ニ於イテ、御校、平橋高等学校ト、対戦校、桜帝高等学校ノ試合ヲ、頂戴仕る。怪盗バンダースナッチ
 平橋高校の生徒会室に届けられた手紙には、そう書かれてあった。

 奇妙な老人だった。
 真っ白になった髪を無造作に後ろで束ねており、日焼けした広い額には深いシワが刻み込まれていた。腰は曲がっておらず160センチを超える身長のせいか、どことなくかくしゃくとした印象を受ける。しかし、長く伸び切った白い眉や髭を見ると、ゆうに八十を超えているように思える。その白く伸び切った眉や髭、皺に隠されて表情はまったく見えない。 
「かなりお困りのようだが?」
 交差点に落ちたやけに長い影が嗤った気がした。
 児玉将大は動揺していた。交叉点の悪魔の話を思い出していた。

 
「本当によろしいのですか?」
 老人は低くよく通る声で児玉に問い質した。
「これは千載一遇のチャンスだとは思わないのですか?」
 児玉は自分の中で何かが傾く音を聞いた気がした。
「もう負けるわけにはいかないのではないですか?」
 老人は児玉を真正面からじっと見て、ただ静かに問い続ける。
「だとしたら、勝つための努力をするべきではないのですか?」
 努力……なのか――
「そう、努力です。報われるためには努力が必要なんでしょう?」
「努力……」
「そう、努力です。私はほんの少しそのお手伝いをするだけです」
「手伝い……」
「そう、努力のお手伝いです。それほど難しい事じゃない。そう。あなたであれば、すぐにできるようなちょっとした努力を」
 とても恐ろしかった。本当にこれが現実の事なのかとも疑った。
「私も、さほど時間がとれるわけではないのです」
 老人は、和装の袖からレトロなデザインの懐中時計を取り出して、ちらりと視線を落とした。
「ですから、今ここで、あなたに決めてもらわなければならない」
 老人は、再び児玉に視線を移した。
「先程私は、あなたにとって難しい事ではないと言いました。この言葉をどうか信じて欲しい」
 どれほど現実味がなくても、どれほど恐ろしくても、その老人は児玉に容赦なく問いかけてきた。その老人の低い声は、児玉の中にするすると入ってきた。
「ここに楽譜があります」
 老人は藍色の浴衣の懐から、数枚の紙を取り出した。不意に動き出した風が老人の手の中に握られている紙を揺らした。
「この楽譜の曲を、ただあなたなりに奏でればそれでよいのです。決して負けられない、というその時に」
 魅入られたように児玉は手を伸ばした。楽譜。長くはない楽曲。
 児玉は手渡された譜面を食い入るようにして見た。
「こ、これは……この楽譜は……」
 児玉は手にした譜面の事を訊こうとして顔をあげたが、既にそこには老人の姿はなかった。
 周囲を見回すが、交差点は宵闇に包まれているだけで老人の姿はどこにも見当たらない。
「この曲は……」
 児玉の手に渡された楽譜が、ゆるやかに風に揺れていた。


 容赦のない日差しが、平橋市民球場に降り注いでいる。
「あっぢぃなぁ、クソ……」
 橘克基は背広の上着を両手でバサバサと振った。
 真夏の球場。当然クーラーはおろか屋根すら期待できないような市民球場だ。うだるような暑さはすり鉢状のスタジアムに沈殿し、スタンドに居る観客の体力を容赦なく奪っていく。
 そんな灼熱地獄の中で、自校の応援に駆り出された吹奏楽部が、刺さる日差しに対抗するかのようにQueenの名曲、We will rock youを奏でている。
 試合は一回裏。平橋高校の攻撃。両校ともに投手の立ち上がりが悪いらしく、塁に出るランナーはいたが得点にはなっていない。
「なんでオレは背広でこんなところに居るんだろう?」
 克基は背広を着てこの場に来たことを後悔しまくり始めていた。
「一応、忠告はしましたからね」
 三塁側スタンドを克基の後ろをついて登っていた栗原弘美が言う。その口調はとても堅く、冷ややかだ。
「その忠告を無視して、ノコノコと背広で真夏の球場にやってきたのは、克基叔父さんなんですからね」
「いや、まぁ、そりゃそうなんだけどさ」
 克基は立ち止まり、後ろの弘美を振り返りながら更に続ける。
「まさかこんなに暑いとは思わないじゃないか。殺人的だよ、この暑さは。灼熱地獄だよ。人死にが出るレベルだよ」
「人が死んだら叔父さんの出番ですよ。よかったじゃないですか」
 周囲をざっと見渡しながら、弘美は真顔で言い放つ。克基は何かを言おうとして、そのまま言葉を失って、力なくうなだれた。
「人を葬儀屋か死神みたいに言うんじゃないよ。探偵なんだから」
「似たようなもんでしょ。他人の不幸を飯の種にしてるんだし」
 克基は今度こそ言葉を失って天を仰いだ。雲ひとつ見当たらない空から降り注ぐその日差しは弘美の容赦のない言葉のように克基の全身を射抜いていた。
「酷い言われようだ」
「そんな事よりちゃんと仕事して下さい。お金、払うんですから」
 橘克基が姪の栗原弘美から依頼を請けたのは三日前のことだった。「怪盗バンダースナッチ」と名乗る者から生徒会に宛てられた手紙には、大胆不敵にも、この日の平橋高校と桜帝高校の試合を奪うという内容が記されていた。平橋高校生徒会会長の栗原弘美が副会長の齊藤千聖や生徒会のメンバーとで話し合った結果、お金を出して弘美の叔父である私立探偵の橘克基に仕事を依頼しようということになった。そして克基は背広姿で灼熱の球場で怪しい人物をアテもなく探すという地味な作業をやる羽目になったのだ。
 どうせ暇だし、相手は子供だし、犯人探しつっても楽勝だろうと思っていたが、こんなに割に合わない仕事だったら引き請けなきゃよかったかなぁ。あぁ、早く帰ってビールでも飲みてぇ――
 克基は内心そんな事思っている。
「橘さん!」
 スタンドの上の方から声がした。ハリのあるよく通る声だ。
 橘が見上げると平橋高校の生徒会副会長―齊藤千聖が手を振っていた。その後ろで、自称「橘探偵社の一番弟子」、遠藤周一が犬のしっぽのように手をぶんぶんと振っていた。
 それを見ながら克基は、周一が千聖みたいに可愛い女の子だったらなぁと思った。


「うん……そう。ありがとう。じゃ、もうちょっとお願いね」
 弘美はスマホを耳から離して、電話のオフボタンをタップした。
 捜査状況は芳しくない。というより、むしろ、何も分からないと言ってもいい。そもそも、手がかりはほとんどないに等しいのだ。
 そもそも、何なんだよ、バンダースナッチって――
 もちろん、克基だってバンダースナッチ鏡の国のアリスに出てくる化物だということくらいは知っている。『ジャバウォックの詩』に出てくるヤツで、すばしっこくて凶暴だという事も知っている。しかし、なぜバンダースナッチなのか?その名前に意味があるのか?
 更に言うと、予告状に書かれた奪うものが『高校野球の試合』なのだ。試合なんか奪ってどうするのか?それ以前の話として試合を奪うってどういうことなのか?
 克基のやる気は、手がかりと同じく、ほぼないに等しい。
「もうちょっと、何かヒントないっスかねぇ」
 周一がへばった顔でだらしなく地べたに座り、克基を見上げる。
「ヒントってクイズじゃねぇんだよ」
 克基はため息をついて弘美達の方を見た。
 スタンドの出入り口から中に入り、直射日光を避けられる場所で休憩しながら現状確認をしている。弘美や千聖は忙しそうに電話やメッセンジャーを使ってあちこちと連絡をしあっているようだった。
「しかし、なんで警察に相談しなかったんスかね」
 周一がのっそりと立ち上がり、カーキ色のワークパンツについたホコリをはたきながら言った。
「そりゃお前、イタズラかもしれないしな」
 克基は出入り口から周囲を観察しながら、周一の問いに答える。
「なるほど。イタズラかぁ」
 周一は両腕を腰に当ててため息なんか吐いている。なんとなく、納得していない様子だ。
「なんだ?イタズラだと何かマズいことでもあんのか?」
「いやだって、それじゃあ骨折り損のカフェオレ儲けってヤツかもしんないって事じゃないスか」
 カフェオレ儲けって何だよ――
 克基は、心の中で密かにツッコミを入れた。面倒なので実際には口に出してツッコミを入れたりしたりはしない。
 連絡が終わって克基達の近くに来た千聖に対して、周一が説明もなしに「ねー」と同意を求める。千聖は少しばかり困ったような、何とも言えない表情を浮かべた後、適当に笑顔を作って誤魔化した。
「状況はどう?」
 克基は、千聖に状況を聞いた。
「やっぱり分かんないですね。そもそも誰を探していいのか分からないですから」
「そりゃまぁそうだな。警察でもあるまいし、高校生に怪しいヤツを見つけろっつってもな」
 球場全体で不審者を見つけるには人手が要る。しかし、橘探偵社には克基と助手の周一の二人しか居なかった。警察に依頼すれば、それなりに数は確保できたかもしれないが、イタズラかもしれない案件に対してそうそう簡単に警察が動いてくれるという保障はない。結局、対応に迫られた弘美達平橋高校生徒会が出した結論としては、生徒会のスタッフを十名前後動員するといったものだった。それにどれほどの効果が期待できるのかは疑問だったが、人員が足りないよりはずっとマシだ。
 ピリリリリリリリリ――
「はい。周一っス。あぁなんだ。お前か。いや、仕事中だけど?」
 周一が電話を取る。どうやら私用の電話のようだ。
 周一が一瞬だけ克基を見て、またスマホに向かって話し続ける。
「あぁ、居るけど?何?いや、仕事中だっつってんだろー」
 克基は自分を指さした。目が合った周一はそれにうなずく。
「誰だ?」
「寺塚っス。同じ歳の」
 周一は律儀にスマホ全体を手のひらで覆って答えた。
 寺塚――?
 克基は記憶を引きずり出す。周一の友人関係の寺塚。
「ほら、昨年の。『蓬莱山山麓神隠し事件』の寺塚一成」
 いつの間にか大げさなタイトルになってしまっているが、なんのことはない。単に行方不明となっていた女性を、捜索依頼を請けた克基が発見したというだけの事件だ。蓬莱山山麓とか大仰な名前が付いてはいるが、蓬莱山は六百メートルくらいの小ぢんまりとした山に過ぎない。
 周一は横溝正史の熱狂的なファンだった。とても迷惑なことに。お陰様で、周一が管理している橘探偵事務所の履歴ファイルには、昭和チックなレトロでおどろおどろしい横溝ワールドなタイトルの背表紙が、ずらりと並ぶという事態に陥っていた。
 それはともかく――
「で?オレに何の用だって?」
「いやぁ、よく分かんねぇんスけど、お堂の鈴がどうとかって」
 よくわからない。
「まぁ、いいや。変わって下さいよ」
 周一は克基の承諾も得ずにスマホを克基に突き出した。
 しょうがないので克基は周一からスマホを受け取って電話に出た。
「もしもし、橘です」
「あー、橘さん、すません。お仕事中じゃなかったんですか?」
「いや、大丈夫だよ。それで?」
「大したことじゃないんですけど。いまちょっと、トレーニングで椚山の毘沙門堂に来ててですね。その毘沙門堂の鈴が変なんですよ」
 克基は心の中で溜息をついた。
「ほら、橘さんって、こういう無駄な事に詳しいじゃないですか」
 無駄って言うなし――
「どんな風に変なんだ?」
「鈴が新しくなってるんですよ」
 克基は、今度こそ相手に聞こえるように深々と溜息をついた。
「あのなぁ、鈴を寄進されりゃ、どんな小さいお堂だろうと、鈴は新しくなるだろうが」
「あ、いや、そういうんじゃなくてですね」
「じゃぁ、どういうんだよ」
 要領を得ない会話だ。
「橘さんが言うように、鈴が新しくなるってことはあるんじゃないかってことくらいは分かります。でも鈴のガランガランって鳴らす縄ってあるじゃないですか」
「鈴緒のことか」
「あれ、鈴緒っていうんですかね。その色が変わっているんです」
「どんな色なんだ?」
「群青色なんです」
 群青色の鈴緒――?
「群青色の他は?」
「ないです。群青色の一色だけなんです。変でしょう?」
 神道系にしても、仏教系にしても、青系の色で飾るのなら、普通、藍がよく使われる。しかも朱と白と藍という三色が定番で、それに黄色が加わるのが精々だ。一般的で言うならば、無地が一番多い。群青色の一色だけの鈴緒というのは確かにあまり聞いたことがない。
「その鈴緒っていうんですかね?ぶっとい紐だか縄だかわかんないんですけど、その中に紙が編み込んであってですね」
 一体なんのまじないだ――
「寺塚君、その紙は?」
「編み込んであるんで、とれそうにないんで。で、ちょっとこれはヤバいもんじゃないかってんで、橘さんに電話したんです」
「わかった。とりあえず、そっから離れてくれ」
「……わかりました」
 寺塚は、克基の指示を素直に受け入れた。周一の言うところの、『蓬莱山山麓神隠し事件』に巻き込まれて結構酷い目にあった彼は、事件を解決してしまった克基に対してかなりの信頼を置いていた。
 克基は寺塚の電話を切ると、弘美に声を掛けた。
「お前の兄貴に連絡とれるか?」
 いつにない克基の真剣な表情にひるみながら、弘美はうなずいて兄に電話を掛けるためにスマホを取り出した。