White Noiz

諸々。

バンダースナッチ (3)

 周一は自転車を全力で漕いで、庚申堂へと向かっていた。
 人使い荒過ぎだっつの――
 心の中で悪態をつきながら、必死にママチャリのペダルを漕ぐ。
 周一が気絶から目を覚ますと、不機嫌な顔の克基と、心配そうに周一を覗き込む千聖の姿があった。周囲は公園。一体何が起こったのか分からなかったが、次第に記憶が蘇ってきた。首塚に貼られていた鈴と札を引き剥がそうとしてぶっ倒れたのだ。
 不機嫌な表情をした克基は、周一の無事を確認すると鬼の首塚を調べ、周一に首塚を見張っているように指示し、そのまま球場へと戻っていった。
 そして、しばらく周一が近くのベンチで暇を持て余していると、今度は克基が生徒会スタッフを伴って鬼の首塚の前にやってきた。その場で周一は克基から怪しい御札を渡され、よくわからないまま平橋公園から南西にある庚申堂に行くように言われたのだった。

 
 平橋庚申堂。市民からは「青金剛様」の愛称で親しまれている、神社なんだかお寺なんだか良くわからない場所だ。愛称の由来は、お堂の祭壇に一体の石彫りの青面金剛像が祀ってあるからだった。
 克基から以前聞いた話によると、江戸時代に近所の人達が集まり、夜を徹してお互いの動向を監視するという、良く解らない怪しげな会合を開いていたらしい。庚申講とかいうものでそれなりに意味があるらしかったが、周一にとっては謎の儀式でしかなかった。
 そして、周一は今、ママチャリを必死に漕いでその平橋庚申堂に向かっている。克基に渡された御札をポケットに突っ込んだまま。
最後のコーナーを曲がり、平橋庚申堂の境内にママチャリを停め、時代劇に出てきそうな雰囲気の庚申堂へとあがる。
 十二畳ほどの庚申堂は神社の拝殿のように周囲は開けてはおらず、どちらかといえば人気のない武道場のように暗く静まり返っていた。
 奥に何かいる――
 薄闇の向こう側に何かが動いている気配がした。
 ゴトッ――
 板の間に重い岩が落ちるような音がした。
 目を凝らす。薄闇の中から影がゆっくりと近づいてきた。次第に恐ろしい憤怒の表情を浮かべた青いバケモノが姿を現してくる。
「うそぉ……あれ、歩いてんじゃん」
 青面金剛。その半裸の身体は青く憤怒の相を帯び、六本の腕には三叉戟、棒、法輪、羂索が握られている。体長は三メートル前後。庚申堂の天井は低く、まさに天を突くほどの迫力があった。
 その青いバケモノが三叉戟を周一に向かって構える。
「ムリムリムリムリムリ!」
 頭を抱えてしゃがみ込んだ周一の頭上を恐ろしい勢いで三叉戟が薙いでいった。
「じょーだんっじゃねぇ!」
 周一は慌てて回れ右をして庚申堂の外に飛び出し、引き戸を閉めて背を預けた。引き戸を開けられたらお終いだと思った。
 スマホを取り出して克基に電話を掛ける。背後の引き戸がガタッと音を立てる。青いバケモノが引き戸を開けようとしている。
 ワンコールで克基が電話に出た。
『おう、周一。そっちはどうだ?』
「どうだじゃねぇっスよぉ!!」
 周一が全力で叫ぶ。
「師匠!助けて下さい!殺されっちまいます!」
『うるせぇな。声がでけぇんだよ。何が出た?』
「青くて、腕が六本あるバケモンっスよ!」 
『なるほど。青面金剛か』
 背後の引き戸がこじ開けられようとしている。
「助けてくださいっ!」
『無理だね』
 克基はきっぱりと断った。
「無理だねじゃねえええええ!」
『安心しろ、周一。それは幻覚だ』
 無理やり力で引き戸をこじ開けようとする気配が止んだ。
「え?マジっスか?じゃぁ殴られても痛くない?」
『いや。殴られたら痛いし、刺されたらショック死する』
「ぜんっぜんダメじゃねぇかぁぁぁっ!」
 周一が叫んだ瞬間、凄まじい音をたてて三叉戟が引き戸を貫いた。三叉戟の鋭い三つの切っ先が戸からにょきっと突き出ていた。
「だから、師匠、助けてくださいって!」
 三叉戟が引っ込んだ。二撃目を喰らえば引き戸は真っ二つだろう。そうなれば、青面金剛と再びご対面だ。周一は大慌てで引き戸から離れてどこに逃げようかと周りを見回した。
『こっちも手が離せんのだ。地獄の窯の蓋を押さえてる』
 この人は何を言っているんだ――
 周一はそう思った。克基が言っていることが分からず、逃げようとしていたことも忘れている。
『野球の試合な。あれ、ついでだったんだよ。本命はまったく別にあってな。欲のつっぱった音楽教師を利用して、鬼の首塚の鬼門をこじ開けようとしてたみたいでな』
「えーと?」
『まぁ、そうだな。わかりやすく言うとだ。野球の試合を妨害するように見せかけて、魔界の門を開こうとしたヤツがいるってことだ』
 なんてこったい――
 周一は天を仰いだ。遥か古より境内に植わっている木々に太陽が遮られ、まだらに影を落とす。木漏れ日がキラキラとまぶしかった。
 あぁ、世界ってなんて美しいんだろう――
 周一は本気でそう思った。現実逃避以外の何物でもなかったが。
 ドカッ――
 引き戸が蹴破られ、青面金剛が自分の背よりも低い入口をくぐりながら姿を現した。昔に見た出来の悪い特撮映画のようだった。
『こっちは艮の鬼門で、今まさに門が開きかけていてな。抑え込むのが精一杯だ。そんなに長くは保たん』
「じゃぁ、どうするんスか!」
 周一はスマホに叫びながら境内の奥へ向かって走った。
『お前がやれ』
 またそんな無茶苦茶な――
「無理に決まってんじゃないっスか!!」
『無理でもなんでもお前がやるしかないんだよ』
「どうやってあんなバケモン倒せってんスか?」
『倒す必要なんかない。切り札はお前に預けている』
 切り札?なんか渡されたっけ?あ、御札――
 克基に「万が一のために持っとけ」と渡されて、ワークパンツのポケットの中にくしゃくしゃにして突っ込んだ呪符。あの時は克基が自分の身を案じて持たせてくれたのだろうと思い、その優しさに若干うるっときながら感謝していたのだが。
 え?ってことは――
「師匠、アンタ始めっからオレに?」
『んなわきゃねぇだろ』
 スマホの向こうから聞こえてくる克基の声はどこかそらぞらしい。
『オレが対応できれば問題なかったんだがな』
 ホンマかいな――
 と周一は思う。どうにもこの男は信用ならない。
毘沙門天の寺塚はもう引き上げただろう。龍王社の浩平は、説明してる時間がねぇ。乾ヶ辻の千聖は女の子だ。怪我はさせられん』
 境内の大きな木の幹に隠れて様子を伺っていた周一に青面金剛が気づいた。三叉戟と棒を振りかざして追ってくる。
「オレはどうなってもいいってんスか!」
『そんなに難しい話じゃねぇよ。お前に持たせた呪符を青面金剛のどっかに貼り付けてある呪符の上にペタリと貼るだけだ』
「無理!絶対ムリ!あんなバケモンに触るとかムリ!!近づくのも断固拒否します!業務命令だとしても拒否!パワハラ反対!」
 周一はスマホに叫びながら全力で走っている。器用な男だった。
『バカ。あれは幻覚だ。お前が呪符を貼るのは本物の方だよ』
「は????」
『お前を襲ってきてるのは幻覚だっつっただろ。本物はまだ庚申堂の祭壇の上に鎮座ましましてるんだよ』
 周一は一瞬納得しかける。しかし、あのバケモノから逃げながらどうやってあの庚申堂に入るのかという問題に気づいた。
「いやいやいや、それでもかなりハードル高くねぇっスか?」
 克基は周一の苦情なんかまったく聞いていなかった。
『いいか。こうなったらお前だけが頼りだ。お前がやれ』
 カッコつけた克基のセリフだけを残して、無情にも電話が切れた。


 周一が必死の思いで動く巨大な青面金剛から逃げ回っていたころ、克基は血管が切れそうなくらいに力を込めて大手門から這い出そうとしている異形の者共を呪符結界で抑え込もうとしていた。
 千聖は乾ヶ辻の馬頭観音像の前で全く連絡を寄越さない克基からの電話を待ちわびて、賽銭箱にいたアマガエルに愚痴っていた。
 弘美は汚い字で「怪盗バンダースナッチ参上」と書かれた発煙筒を偶然にも球場の片隅で発見してしまい、真剣に悩んでいた。


 少し小ぶりの銀杏の樹から、日露戦争戦没者慰霊碑によじ登り、そこから枝ぶりのいい楠に飛び移った周一は、まったく同じ経路で周一に迫る青面金剛を振り返って絶望的な気分を味わっていた。
 仏像のくせして、何でそんなにしつけーんだよ――
 大きく張り出した楠の枝の向こうに、庚申堂の屋根瓦が見える。あのでかいガタイをした青面金剛が木登りするなんてことは想像できず、死にたくない一心で銀杏の木に登ったのは、成り行き以外の何物でもない。青面金剛が法輪の外に突き出たトゲと羂索を使って器用に楠を登り始めたのを見て、青くなった周一は慌てて日露戦争戦没者慰霊碑に飛び移った。そこでようやく、庚申堂の屋根がすぐ近くにあることに気づいたのだ。
 庚申堂に向かって大きく張り出した楠の枝を伝って庚申堂の屋根に飛び降りた。幸い周一の体重が乗ったくらいでは庚申堂の屋根は抜けなかった。
 無事に屋根に飛び降りた周一はホッとして青面金剛を見る。周一を追って楠の幹に取り付いて登り始めた青面金剛に対し、ビシッと中指を突き立てる。
「ここまで来て見ろよ、ぶぁーか」
 青面金剛は、幹にしがみついたまま首を反らせて周一を睨んだ。三つの眼が音をたてて光った気がした。
「マジかよ……」
 呆然とする周一を睨みながら、つまり顔を不自然に反らせたまま、青面金剛は信じられない速度で楠の幹を這い登り、庚申堂に大きく張り出した枝を虫のような格好で這い進む。
「え?ちょっとまった……」
 我に返った周一は慌てて記憶を辿り、庚申堂の祭壇があるはずの場所へと移動しようとした。足が滑り転びかけて、かなりみっともない格好で四つん這いになりながら、庚申堂の祭壇のあったはずの場所へと移動する。
 周一の背筋に悪寒が走る。楠の方へ振り向いた瞬間、青面金剛が楠の枝を蹴って跳んだ。
「うわぁあぁっ!」
 周一が頭を抱えてうずくまる。青面金剛が這い逃げる周一の行手を阻むかのように庚申堂の屋根に降り立った。
 その瞬間、屋根が抜けた。
 天地がひっくり返り、背中を強く打ち付けて息が詰まる。両腕で頭を抱え込んでいたため、後頭部をぶつけることは避けられたが、強烈な衝撃で全身が麻痺する。すぐに酷い痛みが全身を覆った。
 もうもうと立ち込めるホコリの中、周一は全身の痛みにうめき声をあげながら周囲を見る。気絶しなかっただけでもマシだと言えた。
 周一の足の方向に、三叉戟を杖にして幽鬼のように立ちあがろうとする青面金剛の影があった。
「ぎゃああああああ!」
 周一は腰を抜かして立ち上がれず、青面金剛を真正面にして目を離すこともできず、座ったまま後ずさろうと手足をばたつかせた。何かを投げつけようと手を後ろに伸ばすと、固く冷たい物に指先が触れた。木でもなく、冷たい瓦でもなく、ざらっとした硬い何か。
 周一が振り返ると、青面金剛像があった。鈴、黄色の鈴緒、谺の呪符もそのまま額に貼り付けた、動かない方の青面金剛像だった。
「うおおおおおおおっ!」
 周一は雄叫びをあげながらワークパンツの前ポケットを探る。汗ばみ、手がなかなかポケットの中に入ってくれない。ポケットの中に手を強引にねじ込む。
「うおおおおおおおっ!」
 一瞬が長い。呪符が指先に触れる。それを強引に引きずり出す。くしゃくしゃになった呪符が出てくる。
「うおおおおおおおっ!」
 ずっと叫び続けて喉が枯れてきた。ポケットから引きずり出したくしゃくしゃの呪符を青面金剛像の額に貼り付けた。
 バンッ――
 何かが破裂したような激しい音と衝撃が起きて周一の意識は弾き飛ばされた。