龍の泉-2
きっかけは、リカコだった。
四月も半ばを過ぎて部活の勧誘活動もようやく一段落した頃に、アキラとリカコは共同で宿題をやっつけるためにユウトの家に遊びに行く習慣を復活させた。
小学校から続いていた習慣で、勉強が出来るユウトのノートを二人が自分達のノートに書き写す事が殆どだったが、ユウトはユウトでそれを気にするでもなく、幼馴染の二人が自分のノートを書き写す間、アキラが持って来た漫画を読んでいる事が多かった。
リカコはまるっきりの体育会系で、空手の練習もあったため、授業の殆どが睡眠時間としてあてがわれていた。アキラの方は勉強が出来る方だったが、授業中の殆どを漫画や読書に費やし、勉強と努力という二つの言葉を、全く切り離したかのような姿勢で授業に臨んでいた。
以前、アキラにユウトが「ボクのノートを取らなくてもアキラはちゃんといい点取れるじゃないか」と言ったことがある。アキラは、その端正な顔でニヤリと笑って、ユウトの肩を叩きながらこう言った。「ユウトのノートがオレにいい点数を取らせてくれるんだぜ」と。ユウトもそんなアキラの言葉を鵜呑みにするほどバカではなかったけれど、自分が役に立っているという実感がそれ以上の抗議を口に出させなかった。
そんな勉強の日に、滅多に遅刻しないリカコが遅れて来た事があった。
ユウトの部屋に飛び込むと、息を整えながらリカコはこう言った。
「龍之介を大人にしなくちゃ!」
一瞬、意味が分からずに、リカコの方を向いたままポカンとしてしまった二人だったが、それもいつもの事だと立ち直り、詳しい話を聞き出した。
話はリカコの家で飼っている、ウーパールーパーの龍之介の事だった。
龍之介がリカコの家にやってきて、もう5年ほど経つ。しかし、リカコは龍之介がこの歳になっても、成体になる気配すらない事を気にかけていた。ウーパールーパーは両生類だが、ネオテニーなので変態しないというのは、うっかり者のリカコの知るところではなかったのは言うまでもない。
そのリカコが全く変態する気配すらない龍之介を心配し、どうしたら成体になれるのだろうと悩んでいる、と二人に話をしたのは数日前の事だった。アキラとユウトは、漫画を読みながらそんな話を聞いていたため、リカコがどこまで本気なのかを測りそこねたような形になってしまっていた。そんな適当な意識しか持っていなかったところに、リカコのいきなり飛び込んでくるなり「大人にしなくちゃ!」発言だった。二人が驚いたのも無理は無い。
「大人にするって、どうやって?」
「大人にする方法、見つかったのか?」
ユウトとアキラがほぼ同じタイミングでリカコに質問をぶつける。
「野生に返すの」
制服のスカートのまま、ユウトの部屋の床に胡座をかき、烏龍茶を片手にリカコは二人にそう答えた。
「どこの野生だよ!」
今度は二人の声が綺麗にハモる。
リカコは烏龍茶を口に運びながら「待て」とばかりに左手で二人を抑える。勢い良く喉に流し込まれる烏龍茶の音が、間抜けな沈黙となってユウトの部屋を占拠した。
「ぶはぁっ」
派手に息をついたリカコは、まるでおっさんのようだ。少女の姿形はしているが、ユウトとアキラからしてみれば、中身がまるっきりおっさんなのでおっさんと言っても何の問題もない。本人の目の前で口に出すと、さすがに怒りの正拳突きが飛んでくるが、そんなところもおっさんだと専らの定評だ。
一息ついたらしいリカコが、説明を求めている二人に向き直る。スカートのポケットをがさごそと探し、結果その中から出てきたのは新聞の切り抜きだった。
地方版のページを雑に切り取ったその紙切れの中には、月越山の七合目の辺りにある龍ヶ渕という水場の記事が乗っていた。
月越山にはその麓を流れる龍玉川という川がある。その川に流れ込む支流、髭川が月越山から出ている。それほど大きな川ではないが、水量は豊富で澄んだ水が絶えた事はない。龍ヶ渕はそんな川の途中にあった。
「龍ヶ渕にオオサンショウウオがいるんだって」
リカコは烏龍茶を流し込み、一息つくとそう切り出した。
「は?」
「オオサンショウウオ?」
ユウトとアキラが素っ頓狂な声を同時にあげた。
二人ともオオサンショウウオが天然記念物であり月越山なんてところには居ないことを知っている。しかし、それを言ったリカコは自信満々だ。
「そう、オオサンショウウオ」
うなづきながら自信満々に間違えている。
「それ、サンショウウオじゃないの?」
ユウトは新聞の切り抜きを拾い上げて目を通す。
「ほら」
サンショウウオと書いてあるところを指でさしながらリカコに見せる。
「サンショウウオがいるなら、オオサンショウウオもいるでしょ」
リカコは一瞬ひるんだものの、あくまでも退く気はない様子だ。
「いないだろ」
アキラは冷たく突き放す。
「オオサンショウウオはサンショウウオが大きくなったものじゃないから」
ユウトが更に追い打ちをかけると、リカコはぶんむくれた。
「いたらどうすんだよー!」
意地っ張りなリカコは、こうなったら退かない。そういう性格なのだから仕方がない。場合によってはサンショウウオをオオサンショウウオだと言い張るだけに留まらず、オオサンショウウオをでっち上げないとも限らない。そういう無茶な一面がある。そんなリカコの性格をよく知っているユウトは、この会話の行き先にとてつもなく嫌な予感を覚えた。
「いねぇってば」
アキラは苦笑しながらまだリカコをからかっている。
「おい……」
「よぉし!分かった!行けば分かるじゃん!!」
ユウトがアキラを止めようとした瞬間、リカコがすっくと立ち上がった。
止めるのが少々遅かった事に気がついた。しかしそれは既に後の祭りだ。
「よっし!行こう!」
気が付くとアキラも立ち上がって腰に手を当てていた。この辺りは単なる「面白がり」の性格がゆえのノリだ。
「明日土曜日だからな!」
「ユウト、11時半に学校に集合な!」
二人はユウトを置き去りにして盛り上がっている。
「おい……二人とも……」
「龍が棲むとも言われてっからなぁー」
「なんつったって名前が龍ヶ渕だもんなぁー」
ユウトのわずかな抵抗は、二人の声にかき消される。
「行きたきゃ二人で行きゃいいじゃないか……」
ため息と一緒に吐き出されたユウトの呟きは、二人の耳にはまったく届いてないようだった。