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White Noiz

諸々。

龍の泉-5

 アキラが練った作戦はこういったものだった。

 まず、イノシシが出た見晴らしのよい丘から、100メートルほど下った所にゴールネットで罠を作る。アキラは昨日下山する時にしっかり地形を確認していたようだ。

 そこには竹林があり、吊り上げ式の罠を作るのには、最適な場所だという事だった。竹で覆われた遊歩道から分かれる獣道に入ってすぐの場所にちょうど開けた場所があり、曲げてしならせた二本の竹をザイルとテントのピックで固定しゴールネットの両端を竹の先に結いつけた。固定したテントピックと竹を結んでいるザイルは丈夫なものだが、急には切れないため罠としてはそのまま使えない。そこでカラビナとボルトとナットですぐに外せるように工夫をしている。

「ただし、難しい問題がひとつだけある」

 アキラはユウトの部屋で真面目くさった顔をしながらそう言った。

「囮役を誰がやるか、だ」

 アキラの練った計画は、どのようにしてイノシシをそこまで連れてくるかが問題になっていた。決してそこが抜けていたわけではない。イノシシは、雑食であるため餌で罠にかかってくれるとは思えなかったのだ。だとすれば襲われたふりをしながら罠の場所まで誘導する囮役が必要となる。

「あたしが……」

「いや、オレがやる」

 リカコがそう言おうとしたのを遮ってアキラがきっぱりと宣言した。

「だけど、この計画を練ったのはアキラじゃないか」

 抗議の声を上げたが、他に適役がいないのはユウトもよく分かっていた。

「この中で一番体力があって、一番脚が速いのは誰だ?」

 そう言われると、アキラしかこの役をこなせるのはいない。ユウトは自分が論外だということはよく分かっていたし、リカコも空手で鍛え上げた体力と筋力はあるものの、生まれながらにして体格に恵まれた上に、山野を駆けまわって奔放に鍛えてきたアキラには敵わない。結局リカコも渋々だったがそれに従う形になった。

 アキラはイノシシが追ってこない事も考えて、ガス式のエアガンを持ち、イノシシを発見次第、エアガンで怒りを買うという形で罠まで引きつける。リカコは強力な水鉄砲を持ち、中にハバネロまるまる一瓶を水で薄めた危険な銃で罠に突っ込んできたイノシシの顔面を狙って、アキラの援護とする。そして、ユウトは竹と地面を繋ぐ罠のジョイント部分を外す役となった。

 うまく行けば、イノシシはサッカーゴールのネットで吊り上げられて見事捕獲となり、リベンジは果たされるといった寸法だ。

 ユウトは、遊歩道から少し離れた獣道の付近の繁みに身を隠し、落ち葉や下生えの草で巧妙に隠されたゴールネットを見つめながら、アキラの計画がうまく行かなかった時の事を考えている。隣にはハバネロウォーターガンを構え、ユウトと同じように息を潜めているリカコが居る。

 アキラが罠を通過する前に、イノシシに追いつかれたらどうするのだろう?ほぼ同時に罠に脚を踏み入れたらどうするのだろう?罠が作動しなかったらどうするのだろう?アキラはイノシシに勝てるのだろうか?いやそのためにリカコのハバネロウォーターガンがある。だが、リカコが狙いを外した場合どうするのだろう?かといって、お祭りの縁日の射的ですらまともに当てることができないユウトがリカコに代わってハバネロウォーターガンで狙えるはずもない。それは三人共よくわかっていることだ。思いは堂々巡りする。

 ユウトはふとリカコを見た。遊歩道から獣道へ入る入り口の辺りをじっと見ている。昨日のイノシシとの戦いの影響もあるだろうか。打って変わってアウトドア風になったリカコの格好は丈夫なモスグリーンのアーミーシャツに、脛の半ばまであるゴツい黒のジャングルブーツだ。ただ、ユウトがよく分からないと思うのはそんな格好なのに黒いニーハイと黒のミニ・スカートだという事だ。この辺は女の子だといったところなのだろうか。そういうこだわりがユウトにはよく分からない。

 リカコはユウトが見ているのも気づかない。風が下生えの繁みを揺らす。それと同時にリカコの髪も揺れる。手を伸ばせば届く距離。昨日の事を思い出す。夢中でリカコにしがみついた。その感触。幼馴染。体温を感じる事ができる程の近い距離。自分の心臓の音が、いやにはっきりと聞こえてくる。ショートカットの髪型から覗く白いうなじ。いや、違う。そんな事じゃない。そんな事を考えている場合じゃないぞ。アキラはまだか?まだ来ないのか。今はイノシシに、罠に集中しなきゃ。

 リカコが息を呑み、身を固くした。ユウトは自分の考えがリカコにバレたのではないかと心配したが、リカコが獣道の入り口をじっと見ながらユウトの裾を引っ張ったためそれは間違いだとすぐに分かった。リカコの視線の先を追いかけてみると動くものがある。イノシシだった。しかも、やや小さい子どもたちと一緒に獣道へと入って来ていた。

 アキラはどうしたのだろう?

 ユウトはアキラが既にイノシシに倒されたのではないのかと心配になった。

「アキラは……」

 ユウトが不安をそのまま口にすると、リカコはイノシシを見たまま答えた。

「たぶん、すれ違っちゃったんじゃないかな」

 確かに、イノシシの様子を見ると全く興奮している様子はない。アキラと鉢合わせたとすれば、アキラはイノシシを自分に引きつけるためにエアガンで撃っているだろうし、エアガンで撃たれているのであれば、イノシシの方もあれほど穏やかに子供連れで歩いてなどいないだろう。

「どうする?」

 ユウトはリカコの言いたいことがすぐに分かった。あんな穏やかな雰囲気で歩いているイノシシの家族を罠にかけることができるのか?

「やめよう」

「うん」

 いつも優柔不断で迷ってばかりいる自分の性格を良く知っているユウトは、自分の明確な意思でリカコにはっきりとそう言った自分に驚いていた。そしてその判断が決して間違ったものではないという確信もあった。

 イノシシの親子を見ているリカコの横顔。ユウトはそれを見ながら去年の冬に見かけたリカコの表情を思い出していた。

 冷たい雨が降る中、車に轢かれた親猫に向かって必死に鳴いている子猫達。

事故で母を亡くしたリカコはその光景をどんな思いで見つめていたのだろう。きつく結ばれた口元に、全てを拒否するかのような強い思いをたたえて立つその姿はユウトにとってあまりにも近寄りがたく、何もできないままその場を離れることしかできなかった。

 けれども、今は違う。ユウトはリカコの隣にが居る。だからユウトの思いを聞いたのだ。あの親子を自分達の都合で離れ離れにさせる事はできない。その判断は間違っていない。リカコがどんな思いでイノシシ達を見ているかは分からないけれども、決して間違っていない。アキラの計画はイノシシを殺してしまうものではないのだけれども。

 イノシシの家族を見たまま、リカコの手がゆっくりとユウトに向けて差し出された。ユウトはそれはリカコが助けを求めている手のような気がした。

 助けたい。強くそう思った。

 ユウトは激しくなる自分の心臓の音を聞きながら、その手のひらをしっかりと握りしめた。