White Noiz

諸々。

龍の泉-2

 きっかけは、リカコだった。

 四月も半ばを過ぎて部活の勧誘活動もようやく一段落した頃に、アキラとリカコは共同で宿題をやっつけるためにユウトの家に遊びに行く習慣を復活させた。

 小学校から続いていた習慣で、勉強が出来るユウトのノートを二人が自分達のノートに書き写す事が殆どだったが、ユウトはユウトでそれを気にするでもなく、幼馴染の二人が自分のノートを書き写す間、アキラが持って来た漫画を読んでいる事が多かった。

 リカコはまるっきりの体育会系で、空手の練習もあったため、授業の殆どが睡眠時間としてあてがわれていた。アキラの方は勉強が出来る方だったが、授業中の殆どを漫画や読書に費やし、勉強と努力という二つの言葉を、全く切り離したかのような姿勢で授業に臨んでいた。

 以前、アキラにユウトが「ボクのノートを取らなくてもアキラはちゃんといい点取れるじゃないか」と言ったことがある。アキラは、その端正な顔でニヤリと笑って、ユウトの肩を叩きながらこう言った。「ユウトのノートがオレにいい点数を取らせてくれるんだぜ」と。ユウトもそんなアキラの言葉を鵜呑みにするほどバカではなかったけれど、自分が役に立っているという実感がそれ以上の抗議を口に出させなかった。

 そんな勉強の日に、滅多に遅刻しないリカコが遅れて来た事があった。

 ユウトの部屋に飛び込むと、息を整えながらリカコはこう言った。

「龍之介を大人にしなくちゃ!」

 一瞬、意味が分からずに、リカコの方を向いたままポカンとしてしまった二人だったが、それもいつもの事だと立ち直り、詳しい話を聞き出した。

 話はリカコの家で飼っている、ウーパールーパーの龍之介の事だった。

 龍之介がリカコの家にやってきて、もう5年ほど経つ。しかし、リカコは龍之介がこの歳になっても、成体になる気配すらない事を気にかけていた。ウーパールーパーは両生類だが、ネオテニーなので変態しないというのは、うっかり者のリカコの知るところではなかったのは言うまでもない。

 そのリカコが全く変態する気配すらない龍之介を心配し、どうしたら成体になれるのだろうと悩んでいる、と二人に話をしたのは数日前の事だった。アキラとユウトは、漫画を読みながらそんな話を聞いていたため、リカコがどこまで本気なのかを測りそこねたような形になってしまっていた。そんな適当な意識しか持っていなかったところに、リカコのいきなり飛び込んでくるなり「大人にしなくちゃ!」発言だった。二人が驚いたのも無理は無い。

「大人にするって、どうやって?」

「大人にする方法、見つかったのか?」

 ユウトとアキラがほぼ同じタイミングでリカコに質問をぶつける。

「野生に返すの」

 制服のスカートのまま、ユウトの部屋の床に胡座をかき、烏龍茶を片手にリカコは二人にそう答えた。

「どこの野生だよ!」

 今度は二人の声が綺麗にハモる。

 リカコは烏龍茶を口に運びながら「待て」とばかりに左手で二人を抑える。勢い良く喉に流し込まれる烏龍茶の音が、間抜けな沈黙となってユウトの部屋を占拠した。

「ぶはぁっ」

 派手に息をついたリカコは、まるでおっさんのようだ。少女の姿形はしているが、ユウトとアキラからしてみれば、中身がまるっきりおっさんなのでおっさんと言っても何の問題もない。本人の目の前で口に出すと、さすがに怒りの正拳突きが飛んでくるが、そんなところもおっさんだと専らの定評だ。

 一息ついたらしいリカコが、説明を求めている二人に向き直る。スカートのポケットをがさごそと探し、結果その中から出てきたのは新聞の切り抜きだった。

 地方版のページを雑に切り取ったその紙切れの中には、月越山の七合目の辺りにある龍ヶ渕という水場の記事が乗っていた。

 月越山にはその麓を流れる龍玉川という川がある。その川に流れ込む支流、髭川が月越山から出ている。それほど大きな川ではないが、水量は豊富で澄んだ水が絶えた事はない。龍ヶ渕はそんな川の途中にあった。

「龍ヶ渕にオオサンショウウオがいるんだって」

 リカコは烏龍茶を流し込み、一息つくとそう切り出した。

「は?」

オオサンショウウオ?」

 ユウトとアキラが素っ頓狂な声を同時にあげた。

 二人ともオオサンショウウオが天然記念物であり月越山なんてところには居ないことを知っている。しかし、それを言ったリカコは自信満々だ。

「そう、オオサンショウウオ

 うなづきながら自信満々に間違えている。

「それ、サンショウウオじゃないの?」

 ユウトは新聞の切り抜きを拾い上げて目を通す。

「ほら」

 サンショウウオと書いてあるところを指でさしながらリカコに見せる。

サンショウウオがいるなら、オオサンショウウオもいるでしょ」

 リカコは一瞬ひるんだものの、あくまでも退く気はない様子だ。

「いないだろ」

 アキラは冷たく突き放す。

オオサンショウウオサンショウウオが大きくなったものじゃないから」

 ユウトが更に追い打ちをかけると、リカコはぶんむくれた。

「いたらどうすんだよー!」

 意地っ張りなリカコは、こうなったら退かない。そういう性格なのだから仕方がない。場合によってはサンショウウオオオサンショウウオだと言い張るだけに留まらず、オオサンショウウオをでっち上げないとも限らない。そういう無茶な一面がある。そんなリカコの性格をよく知っているユウトは、この会話の行き先にとてつもなく嫌な予感を覚えた。

「いねぇってば」

 アキラは苦笑しながらまだリカコをからかっている。

「おい……」

「よぉし!分かった!行けば分かるじゃん!!」

 ユウトがアキラを止めようとした瞬間、リカコがすっくと立ち上がった。

 止めるのが少々遅かった事に気がついた。しかしそれは既に後の祭りだ。

「よっし!行こう!」

 気が付くとアキラも立ち上がって腰に手を当てていた。この辺りは単なる「面白がり」の性格がゆえのノリだ。

「明日土曜日だからな!」

「ユウト、11時半に学校に集合な!」

 二人はユウトを置き去りにして盛り上がっている。

「おい……二人とも……」

「龍が棲むとも言われてっからなぁー」

「なんつったって名前が龍ヶ渕だもんなぁー」

 ユウトのわずかな抵抗は、二人の声にかき消される。

「行きたきゃ二人で行きゃいいじゃないか……」

 ため息と一緒に吐き出されたユウトの呟きは、二人の耳にはまったく届いてないようだった。



龍の泉-1

 強い日差しが照りつけている。下生えの草花は青々として茂って、常葉樹から溢れ落ちた木漏れ日が斑に色を飛ばしている。

5月の連休明け。もう夏に入れてもいいのではないかと思えるほどの真っ青な空の下、月越山の遊歩道を三人が登っていく。

 先頭を歩くのはアキラ。そのすぐ後を歩いているのがリカコ。そしてやや離れてユウトが続く。体力的に男女の差があまり変わりのない中学生だが、アキラに続くリカコの足取りはしっかりしている。

 それほど大きな荷物を背負っていないアキラとユウトに対して、リカコの背にあるのは青くて大容量のリュックサックだ。できるだけ揺らさないようにして、足を運んでいるその様子から体力にまだ余裕があることが分かる。

 しかしそのリカコの様子とは裏腹に、最後尾を行くユウトの足取りの方が覚束ない。肩で息をして顎があがっているユウトはいかにも体の線が細く、時々度の強いメガネを外しては肩にかけたタオルで流れる汗を拭っている。

 リカコがユウトの遅れに気が付いてアキラに声を掛ける。

「アキラ。ユウト遅れてるよ」

 アキラはその声に立ち止まる。

 ユウトもリカコの声に反応し、少々むっとした顔をして立ち止まった。

「ボクのことは気にしなくていいよ」

「そんなわけにはいかないだろ」

 アキラが自分の袖で汗を拭いながら木々に隠れた月越山の稜線を見上げる。現在地は山の三合目辺りか。頂まではまだ程遠いが、目的地は山頂ではない。行程の半分は既に過ぎている。そろそろ休憩を入れてもいい頃か、とアキラはひとりつぶやく。

 そんなアキラの様子を見て察したのか、ユウトは不満気にため息を漏らす。まだまだ歩けると言わんばかりに。しかし、その膝はわずかに震えていて、ユウトはそれを前の二人に悟られないように足を踏ん張った。

 ユウトは悔しくなって、自分の情けない足元を見る。狐色のトレッキングシューズと厚めのソックスから伸びた、いかにも筋力のなさそうな、白くて細い脚。焦げ茶色した半ズボンのワークパンツに、襟付きの青緑ボーダーのポロシャツ。手には焦げ茶色のトレッキングステッキまで持っている。その装備はトレッキングのスタンダードだが、これ等が山登りに適している事は説明するまでもない。

 しかし、アキラは黒いTシャツの上に白いワイシャツを羽織り、ジーンズにサッカーシューズという軽装だし、リカコにいたってはグレーで七分袖のパーカーにブルーデニムのショーパン、黒のニーソにコンバーススタイルのハイカットバッシュというカジュアルにも程がある格好だ。

 ユウトなんかはその格好を見て、脚を怪我でもしたらどうするのだろう?等と思ってしまう。

「こんな格好をしているボクがまるで馬鹿みたいじゃないか」

 ユウトは自分のトレッキングシューズに向かってつぶやく。

 これだけ意識に差があるというのに、ユウトが遅れがちなのは、偏に体力の違いとしか言い様がないのだけれども、ユウトはそれを決して認めたくはない。実際、ユウトにとってはこれだけの装備なのに、なぜ自分が前を行く二人に遅れをとっているのか?という思いが強い。意識の問題ではないのだが。

 とにかく、ユウトはそんな思いを地面にぶつけながら一歩一歩確実に脚を踏み出そうとする。しかし、非力な脚はそんな思いをよそにユウトのいう事を聞いてくれそうにない。

「とりあえずこの先に平らなところあるからさ」

 アキラが急勾配に登っていく山道の先を指さす。

「そこで一旦休憩しようぜ」

「龍之介にもご飯食べさせなきゃいけないしね」

 リカコが背負ったリュックサックを気にかけながらそう言った。

「龍の泉」について

本日より、短編小説「龍の泉」をリリースしていきます。

ジャンルはそうですね……青春モノ?w

話数は7話で、週に2回位のペースで日、水のリリースにしようかなと考えています。

前に載せていた「Deeper」もそうだったんですが、この「龍の泉」も同人誌に寄稿したものです。

創作集団スターボードというところでして、ここでは面白いことに落語の「3題噺」になぞらえたお題つきの物語を年に二回同人誌としてまとめています。

この「3題噺」を「3題話」として活かし、3つのキーワードを物語の中に必ず登場させなければならないというものです。

前回のDeeperでは「さよなら三題話」として、「さよなら」「車輪」「仮免」のキーワードでした。

今回の龍の泉では「リベンジ三題話」として、「リベンジ」「パンツ」「オオサンショウウオ」がお題になっています。

そういった側面からもお楽しみ頂けるかなと。

三題話に興味を持たれた方は、こちらからコンタクトで問い合わせると、三題話を購入できるそうな。

それでは、龍の泉をお楽しみ下さい。

Deeper - 4

「お邪魔しまぁす」
腕を鳴らしながら部屋の中に入るとゲジゲジの姿が見えない。どこいった?
「このクソシロクマゴリラが……覚えていなさいよ」
誰も入居していない部屋の片隅からゲジゲジの声が聞こえる。匂いもそこにいる。が、姿は見えない。なるほど。新型の迷彩か何かか。
「シロクマじゃぁねぇつってんだろうが」
確かな匂いを手がかりに移動し続けるゲジゲジの腹を蹴り上げる。
「ぐぼぁっ?!」
胃液を吐きながらゲジゲジが姿を現してのたうち回る。吐く胃液はあるんだな。などと感心する。こいつ人間だったのか。なんだかちっとも人間だと思っていなかった自分に気づいて苦笑する。右肩についている物々しい軽機関銃を掴み、捻って毟り取る。
「これでもなぁ、ちゃんと狗神の血を引いてんだよ」
のたうち回っている背中を右足て踏みつけ、逆立っている金髪を掴んで顔をこちらに向かせて睨む。
「ひ、ひぎぃっ!!」
ゲジゲジが腰の後ろに収まっていた刃渡り20センチほどのナイフを引き抜くとオレの脚を払いに来た。意外にもまだまだ元気だ。
刃を避けようとして脚をあげた瞬間、ゲジゲジは車輪に全駆動をかけて逃走を図る。こうなってくると、ゲジゲジではなくてゴキブリみたいだな。
破壊された窓枠でゴキブリを串刺しにしてやろうか。
窓枠の邪魔な部分を取り除き、投げつけようとした瞬間、女の声が耳朶を打った。
「逃げられるわけないじゃない」
その声は、ゴキブリに向けられたものなのか、オレに向けられたものなのか、それとも自分自身への……。
「この街の中のいたる所にあたしの目があるんだから」
窓の外。隣のマンションの屋上。振り返る。
振り返った先に、朝の爽やかな空を背景に、灰色の墓標と化した高層マンションがあった。その高層マンションのすべての部屋の窓に写る眼。チリチリと音を立てて体毛が逆立って行く。
なんだ……あれは。
「さよなら」
そして、銃声。
床に這いつくばったまま動かなくなったゴキブリ。
その瞬間、オレは思い出していた。
盲目の狙撃手。
8年前。
壊滅した特殊部隊。
生き残りはオレだけではなかったのか。
死と同時に歪んだ遺伝子を呼び起こすクスリ。
DEEPER。
すべての窓から覗く瞳。
すべての障子の格子の中から覗く瞳。
『目目連』
「ようやく思い出してくれました?隊長?」
気が付くと女が立っていた。
「あぁ。お前、眼は……」
「DEEPERから逃げ切ったら視力が戻ったんですよ。顔ももちろん整形で」
「そうか……オレだけじゃなかったのか」
思わず零れた溜息は、安堵か陰鬱か。
女は軽く微笑むと破壊された窓から空を見上げた。
「整形でも美人に言い寄られると悪い気はしないでしょ?」
思わず笑みが溢れる。
「しかし、この騒ぎは一体何だ……」
「あのゴキブリは新型のDEEPERってとこかなぁ」
「新型?」
「そ。先祖返りの確率があまりにも悪すぎるから、人工で作っちゃえって」
「人工でオレたちみたいなのを作ろうってのか?」
「そういう勢力がいるの」
軍?政府?いずれにしてもきな臭い話だ。
「お前は?」
「アタシは、さっきので分かったと思うけど、オリジナルの方」
「目目連か」
「隊長は狗神ね」
「あぁ、そうだ」
DEEPERの副作用をくぐり抜けて生き延びた者に与えられた「先祖返り」。
どうやら日本人というのは、混じりっ気なしの「人間」だけではなく、少数ではあるが「物の怪」も自覚もなしに人間として生活していたらしい。
その末裔がDEEPERによる覚醒という副作用を乗り越えると、先祖が本来持っていた「兵器」としての能力を取り戻す事ができるらしい。
狗神は強靭な身体と驚異的な身体能力。目目連は索敵と狙撃精密度。
これが先の紛争で日本が圧倒的な量を誇る連合軍を退けた奥の手だった。
「で、連中がオレを狙う理由は?」
「ロストナンバー……って言ったらカッコいいけど、初期に覚醒しちゃって軍側で捕捉できなかった野良のDEEPERを切り刻んで、新型DEEPERの為のモルモットにしようってさ」
「で、レギュラーナンバーであるDEEPERのお前が出張って来たってわけか」
「そーゆーことね」
折角息を潜めて地味に生きてきたのに、その苦労が一日にして泡と消えたらしい。
「で、お前が属する側にオレがモルモットにされないという保証は?」
「……隊長、アタシ、仮免どうです?」
仮免……?仮免ってなんだ?
「あー、隊長、完全に忘れてるなぁ……」
溜息をついてふくれっ面になる。
「大人になったら彼女にしてやるって約束したじゃぁないですかー。もー」
あー……。そんな事、言ったっけ。
「8年前っ!まだ早すぎるからまずは仮免合格目指せ!ってアタシに説教したの誰よーっ!もーっ!」
「あー……。えー……」
「いいもん、忘れられたって気にしないもん。さ、昨夜の続きしましょーっ!アタシ血を見るとちょっと興奮しちゃうんだよねー」
「いや待て。ちょっと待て」
オレの部屋はボロボロだぞ?と思ったが、そういう問題でもないような……。
いや、待てよ。何か大事なことをはぐらかされてるような……オレの身柄の保証……。
あっ!
「オレを説得できる気がしないからハニーポットかよ!!」
「あ、ヤバい。バレちゃった」
「ふざけんな!逃げてやる!」
「あーっ!ちょっと待った。待ってーっ!隊長ーっ!」

Deeper - 3

キリッー。
窓の外から聞こえる微かな機械音。目の前の女もオレに銃口を向けたまま振り返る。
迂闊にも程がある。が、動けない。何者かに見られている。いや、この視線はこの女のものだ。しかし女は窓の方を見ている。これは一体……。
次の瞬間、窓ガラスが割れて部屋の中に何かが投げ込まれた。フローリングの上に転がるスプレー缶のようなもの。咄嗟に目を逸らして床に伏せる。
閃光。
しかし、音もしなければ周囲に散らばる榴弾片もない。白い世界が瞼越しにも網膜に焼き付く。
フラッシュバンだと?!
女の悲鳴が聞こえた。閃光を直視したか。直視を避けて床に伏せたオレですら視界は白く封じられている。直視ならば失明の危険性もある。あの女からは逃げられる。そう、逃げるなら今のうちだが……。
しかし、女もろともフラッシュバンの洗礼を受けたってことは、襲撃者と女は仲間じゃないって事だよな?ということは第三者からの襲撃?
閃光弾が放り込まれた逆の窓からガラスの破壊音。やっぱり逃げられねぇか。
全身の筋肉をたわませて跳ぶ。モーターのような機械音。そしてばら撒かれる銃声。
壁。体勢を入れ替えて壁を両足で蹴る。再び跳躍。今度は天井を蹴って窓の外に。
女の悲鳴は聞こえない。銃弾が肉を抉る音もない。逃げたか。だが視界を奪われているのにどうやって?
知るか。今はそれどころじゃない。
膨張したかのように筋肉の塊と化した身を丸め、割れたガラス戸に突入する。被害は甚大だ。誰に請求していいものやら。ベランダの手摺を蹴って方向転換をすると上階の手摺を掴み、更に身体を上へ押し上げる。
「クケケケケケケケケケケケケ」
耳障りなモーター音と共に不気味な笑い声が追って来る。さぞかし声の持ち主は変態的な姿をしているに違いない。今はホワイトアウトした視界のお陰でその姿を見ることはできないが。
「待ちなさいよぉ〜」
おい、変態声な上にオネェ言葉かよ。
目は見えなくても移動することはできる。上階のベランダへの手摺の距離は等間隔。おおよそのところは身体で覚えている。あとは手摺を掴むタイミングの問題だ。それよりもなによりも、問題なのはこの目が利かない状態のまま戦闘になる事だ。相手も状況も分からないまま盲目のまま戦うなら、このまま逃げに徹したいところだ。
軽機銃の連続した銃声。真っ白に伸びた体毛が僅かな風の変化を察知して危機を伝える。オレは横っ飛びにマンションの壁面を蹴り、更に上階を目指す。
あと10秒。
「アタシの真っ赤に焼けたロケランをアンタのケツにぶち込んでやるんだから……」
変態的だと思っていたが、こいつは本物の変態じゃねぇかよ。
変態が完全に完了し、フルパワーが使える。フラッシュバンで潰れた視界が回復する。そして、屋上に到達する。あと8秒。
「待ちなさいっつってんでしょう!シロクマ野郎!」
偏執的でいて甲高い癪に障る声。変態にシロクマ野郎呼ばわりされる覚えはねぇ。
あと5秒。
「うっせぇよ」
吐き捨てて最後の手摺に手を伸ばす。その瞬間を狙って銃弾の掃射。
「アタシの腕の中に落ちて来なさい、シロクマちゃん」
マンション最上階ベランダの手摺をスルーし、ベランダの庇に手をかける。1秒程足りないがなんとかなんだろ。ベランダの庇にかかった全体重を両腕で支え、強引に方向転換する。となりのマンションの壁面へ。
見えた。
やたらと細長い手足。肘から手首にかけてと脛に無数の車輪。それらをモーターで動かして壁面を登っているのか。どうやって壁面にへばり付いているのかは謎だがそれにしても異様な姿だ。四つん這いよりも低く構えられた土下座のような姿勢。肩口には軽機関銃とロケットランチャー。ヘンテコなボンデージ風デザインの黒い合皮ファッション。まるで出来損ないのゲジゲジの玩具だ。
シロクマじゃねぇよ、ゲジゲジめ。
隣のマンションを利用した三角飛び。壁面から渾身の力で跳ぶ。案の定、ゲジゲジ野郎はオレの姿を見失ったようで車輪を止めて屋上の方を探している。その背中へ。
「おるらぁっ!」
スピードと体重を思い切り乗せて組んだ両手を振り下ろす。
メキャッ。
軽金属がひしゃげるような音をたてながらゲジゲジ野郎の背中がエビ反りに曲がる。
ゲジゲジの左肩に乗っかっているロケットランチャーの砲筒を右腕で掴み、左腕でベランダの手摺を掴んで姿勢を固定する。そのまま掴んだ砲筒をぶん回してゲジゲジをマンションの壁面へ。
ベシンッ。
なんだか蛙が鳴いたような酷い悲鳴が聞こえたがキノセイに違いない。
今度は腕を振り上げ、階上の窓から部屋の中にゲジゲジを放り込む。派手な音をたててゲジゲジが部屋の中に投げ出される。それを追いかけるようにしてオレも部屋の中へ。

Deeper - 2

参ったね。こりゃ。
オレは黙って両手を上げる。もちろん、無抵抗だから撃つなよという意思表示だ。
「身の回りのもの、使えるものは全部武器にしろ。でしたっけ?隊長?」
にっこり微笑んでいるものの、目は全く笑ってはいない。そしてオレの胸にポイントした照準もまったくブレもしない。
隊長……ね。
「まぁた、懐かしい台詞を引っ張り出してきたもんだな」
口の端を釣り上げてニヒルに笑ってはみたが、果たして挑発としてどれほど効果があるのか。
「そーですよねぇ。あれからもう8年ですか」
8年か……。戦場を駆けずり回ってたあの時からもう8年ね……。
「けど、女に弱いのは相変わらずってことですよね?」
微動だにしない銃口を意識しながら女の表情を読み取る。
「性格はそう簡単には変わりゃしねぇよ。お前も相変わらずあざとい手を使う」
憎まれ口を叩くのと同時に情報を引き出す為の会話。残念ながらこの美女が誰なのか、オレにはまださっぱり思い出せずにいるのだ。
「あら。本当に思い出せたんですか?」
少しばかり意外な表情。ということは、記憶の埒外にあるだろうという想定で仕掛けてきていたということか。
「もちろんだ」
これ以上の会話はヤブヘビというヤツだな。
もっともらしい表情をしながら、座ったままで椅子を少しずつ後ろにずらしていく。
気づくかなぁ?気づくんだろうなぁ……。
銃口がぴくりと動く。なるほど。
「座ったままはお嫌いですか?」
ほら、やっぱり気づいた。
「緊張し過ぎるとタバコが吸いたくなるんだ」
「タバコ?」
女の形のよい柳眉が不均等に釣り上がる。
「以前はタバコなんて吸わなかったのに?」
なるほど、オレがタバコを吸い始める以前のお知り合いってわけか。
「そりゃ8年もすりゃ小学校にいたガキだってタバコを吸い始める歳になるさ」
女は疑わしげにオレを見ている。
「タバコくらい吸わせてくれよ。最後の一服くらい許してくれたっていいんじゃないのか?」
気まずい沈黙の後、女はようやく表情を柔らかくした。
「ま、いいか。タバコぐらい」
その『タバコ』が命取りなんだけどな。
オレは心の中で舌を出す。
「タバコはどこにあるの?」
「冷蔵庫にひっついてるマグネット式の壁掛けボックス」
女はオレに銃口を向けたまま、冷蔵庫を振り返る。
おいおい素人かよ。ターゲットから目を離すんじゃないよ。
右手を動かそうとした瞬間に銃口がオレの右手の方に定まった。
何だ?こちらを見てもいないのに?
右手をそっと元の位置、顔の右側にあげる。銃口がオレの胸のど真ん中をポイントする。何事もなかったかのように先ほどの状況に逆戻りだ。
冷蔵庫の扉にちょこんと張り付いているマグネット式のボックスを見つけた女は、無造作に冷蔵庫の前にたどり着く。銃口はオレを向いたまま銃を左手に持ち替え、右手でマグネット式のボックスを冷蔵庫から引き剥がす。
「これ?」
金属製のボックスを右手で軽く持ち上げて、重さと中身を推し量るように軽く振る。
「それ」
「ライターは?」
「その中だよ」
女は頷いてボックスをオレに放り投げる。
オレはそれを左手で掴む。
「吸っていいか?」
「どうぞ」
軽く首を傾げながら、用心深く銃を右手に持ち替えて構え直す女。
ホールドアップの姿勢のまま左手の親指で蓋を弾く。ボックスの中にあるタバコの香りが12畳のダイニングキッチンに微かに溶け出す。こちらも女から視線を外さずに、テーブルの上で箱を逆さまに。自分で葉をブレンドした紙巻のタバコ数本とライターが転がり出た。
ゆっくりと左手でタバコを掴み、右手でライターを取る。このライターが火炎放射器か何かだったらジェームス・ボンドになれそうな気もするが、残念ながら現実はそんなに甘くない。こいつはただのライターだ。本命はタバコにある。本命にたどり着くまで下手に相手を刺激しない。確実な一手を掴むまでは。
タバコを口に咥えて火を点ける。ゆっくりと煙を吸い込む。本命を手にするまで約10秒。時間が掛かり過ぎるのが奥の手の難点だ。
タバコの葉に混ぜ込まれたトリプタミン系薬物から派生した向精神効果のある特殊人口化合物ー通称DEEPERーは5年前から起こった北朝鮮崩壊を引き金とした東シナ紛争の最中、最前線で戦う兵士達の間で流行り始めた。その製法も流通ルートも不明。当初は戦場の恐怖を克服するための向精神薬として服用されていたが、その後特定の体質を持つ者にとって強烈な副作用がある事が判明し、2年前に規制対象となったものだ。
その副作用はアレルギー系の拒否反応を引き起こした者の八割を死に至らしめるほど過酷なものだった。しかし、この拒絶反応を掻い潜った者達には多様な特徴が見られ始めた。ある者は異様なまでの怪力。ある者は動物のような俊敏性。そのような者達の中には戦場において恐るべき戦果を挙げた者達もいた。謎だらけのクスリはやがて軍が前線の兵士達を薬物強化兵開発の実験台にしたのではないかという噂まで流れた。だがしかし、その真相は……。
DEEPERがDNAの中に眠る太古の記憶を呼び覚ます。
チリチリと産毛が逆立っていくのが分かる。
女がオレを凝視している。表立って変化が現れるにはまだ時間が早過ぎる。何を視ている?まさか……知っているのか?この奥の手を?

Deeper - 1

その朝、オレはとてつもない二日酔いで眼を覚ました。 いつものオレの部屋。いつもの日差し。いつもの時間。だがオレの頭の中では巨大なドラが重々しく鳴り響いていた。 「ちくしょ……」 悪態をつきながらベッドから身を起こす。 「おはよう」 オレの隣でやけにセクシーな肢体をくねらせながら、とびっきりの美女が朝の挨拶をしてきた。 身長160cm。年の頃は24〜26といったところか。黒髪のショートボブはやや寝乱れた風。ブラウンの瞳。勝ち気さを示すかのようにやや上がり気味の眼尻。やや低めだが真っ直ぐに伸びた鼻梁。顎のラインは女性らしい膨よかさを残しながらもシャープさをアピールしている。朝日に透けて見えるうなじと陰を作る鎖骨の陰。そして、ベージュのシーツの下に隠された肢体は上から86、62、90と見た。 オレは思わず呟いた。 「わーお」 いや、待て。そうじゃないだろ、オレ。それ以前の問題がここにこうやって厳然たる事実を以って横たわっているだろう。そう、まるでこの美女のように。 「……お前誰だ」 目の前の美女が艶然と微笑みながらこう言った。 「仮免、合格?」

仮免?何の仮免だろう? 普通、一番に思いつくのは車の仮免だろう。だが、なぜオレが見ず知らずの女に車の免許を交付しなければならないのか?そういう意味ではこの車の仮免というのアイディアは大方ハズしていると考えていいだろう。では何の仮免なのだろうか? キッチンではコポコポと音を立ててコーヒーが沸いている。さきほど一緒に寝ていた美女が鼻歌混じりにサラダを作っている。 白いだぼだぼのオレのワイシャツから、美しい脚がにょきっと出ている。その上からどこから持ってきたのかよくわからないオフホワイトなエプロンをつけている。仮免について思いを馳せるのを辞め、そんな女の後ろ姿を眺めながらオレは思った。 なんてベタな展開なんだろう……。まるで80年代のスラップスティック・コメディの類だ。 「コーヒーはブラック?」 少しばかりハスキーな声が響く。 「あぁ、うん」 なんとも間の抜けた返事だ。どう考えてもあちらのペースに飲まれている。オレはまだこの美女が誰なのかも分からないし、先ほど彼女が呟いた「仮免」の意味も見当がついていないというのに。 愛用のステンレスのマグカップに7割くらい満たされたブラックコーヒー。良くわかっている。何者だ。この美女は。 コーヒーと一緒にテーブルの上に差し出されたのは、やや深めの皿に入ったサラダにコンソメスープ、そしてシリアル。一人暮らしなオレのいつもの朝食と一点を除いて変わらない。唯一の変更点であるサラダは、これまたオレの好みを知っているかのようにサウザンドドレッシングがかかっている。 「で、何の用だ?」 オレはスプーンを手に取り、スープにとりかかる。本題にいきなり斬り込む時には何気ない風を装うのがコツだ。 「昨夜、一緒に居たくせに『何の用だ』っていうのはあんまりじゃない?」 美女は自分のスープをカップに注ぎながら、こちらを見もせずに言う。クスリと笑った風に聞こえたが、確かに朝の状況を考えてみれば、オレの台詞は無粋の極みだろう。そうは思うものの、昨晩の記憶が欠片もないのだから仕方がないのだが。 「いや、まぁ……」 などと、適当に言葉を濁してしまいそうになる。 だが、待てよ。この会話の流れではこの美女の正体が全く分からないままだ。上手くはぐらかされている可能性だってあり得るのだ。上手くはぐらかされたまま手探りの会話をいつまで続けなければならんのだ? そう考えて、既に相手の術中にあるのではないかと背筋が薄ら寒くなる。 この女、何者だ。 オレは静かにスープカップをテーブルの上に置くと、現状を確認した。 何の変哲もない朝の風景。いつもの部屋にいつものような二日酔い。そして、いつものような朝食。唯一、彼女の存在を除いては。 サラダを手に取り、フォークを右手に持つ。ひと口、レタスの欠片をフォークで刺し、口の中に放り込む。サウザンドドレッシングの酸味が二日酔いでドロドロになった口の中に爽やかに広がる。うむ。美味い。 フォークをテーブルの手前側に置き、左腕でさりげなく隠しながらコーヒーカップに手を伸ばす。左手の中指と薬指でテーブルの上に置いたフォークの柄を挟み、スウェットの袖の中へ……。 「はい、そこまで」 薄い笑いをたたえて美女が右腕を突き出していた。その右腕の掌には無骨な金属の塊が握られている。 シグ・ザウアーP229EE。 ドイツのシグ社が作った名銃P226を小型化し、扱い易くしたP228から、更にグリップやトリガー等を変更し、コンバットシューティング用にカスタマイズされたハンドガンだ。 そんなハンドガンが「下着にワイシャツだけ」というセクシーな格好のどこに持っていたのかと疑いたくなるような鮮やかさで突き出されていた。