龍の泉-4
「我々の名誉を挽回するには、リベンジしかないのであるっ!!」
月越山からボロボロになって帰って来た明くる朝、アキラはユウトの部屋で立ち上がってそう叫んだ。
龍ヶ渕を目指した月越山アタックに挫折した三人はイノシシの強襲に遭遇、撤退を余儀なくされた。思いにもよらないユウトの横槍によって、イノシシと戦わずして退かざるを得なかったリカコの口惜しさは、アキラやユウトの比ではなく、リカコは夕飯が大好きだったシチューにも関わらず手を付けず、龍之介と部屋に閉じこもったっきり一歩も外に出なかった程だ。
「明日なんとかする。だから今日はもう休め」
なんだか妙に大人じみたセリフで、どこかの漫画かアニメから借りてきたものなのかな?とも思ったし、自分は役に立たないんだと言われている様でなんだか無性に悔しかったが、帰り際にきっぱりりとそう言い切ったアキラの言葉を信じてリカコは素直に眠った。龍之介が入った水槽の前で。
隣の家のアキラの部屋で夜遅くまで電気が灯っていたので、アキラは何かをやっているようだった。こういう事柄に関してアキラは天才的とも思えるアイディアと実行力を発揮する。そういうところは素直に凄いと思うのだが、自分には空手なんていうガサツな部分でしかアキラに勝てないのだと思うとなんだか凹む。アキラの指示はいつも大人顔負けでとても的確だ。アキラが何も言ってこないということは、おそらくリカコがやるべき事はないのだと思って、出来るだけ気にしない事にして休むようにした。今考えると、そのわざとらしい言葉もアキラの優しさだったのかもしれないと思う。
アキラの真意はどうであれ、リカコは空手の試合に負けた時と同じような悔しさに襲われていたものの、思った以上に疲れていたらしく、朝まで目覚める事もなくぐっすりと眠れていた。コンディションは上々と言ってもいい。幸い、丘から転げ落ちた時にも、ユウトを下に転がったせいかリカコにはどこにも怪我はなかった。その代わりユウトは青あざだらけになっていたが、それは決してリカコが殴ったからというだけではない。
そして朝。アキラから招集の声がかかった。朝8時。なぜかユウトの部屋。リカコがユウトの部屋に入ると既にアキラはそこに居た。黄緑色でなにやら重そうなザックをユウトの部屋に運び込んでいる。そのザックの横でなぜかユウトが物凄く不機嫌そうな顔でそっぽを向いている。リカコはその様子だけで、昨夜アキラとユウトは二人で何かやらかしたのだと直感的に悟った。
リカコがユウトの部屋に入ってくるなり、アキラは立ち上がって高らかに宣言をしたというわけだった。
「いよっしゃぁ!リベンジだ!!」
リカコにしてもこういうアキラの性格は慣れているので、勢いに乗っかるのはさほど難しくはない。それよりも問題なのはアキラの横にある大げさなザックだ。アキラのことだ。昨夜のうちに用意した対イノシシ用の秘密兵器に違いない。
「このザックはなんなの?」
アキラはリカコの反応にドヤ顔になってニヤリと笑った。横にいるユウトは先ほどよりも増してぶすくれた顔になっている。
「ふっふっふっ」
アキラはノリノリでリカコの前で人差し指なんかを振っている。明らかに何らかのアニメか漫画の影響を受けているとしか思えない。
「聞いて驚け、これが対イノシシ用の秘密兵器だッ!」
「ふーん」
大げさにセリフを吐いたアキラは、リカコの軽い返事にコケそうになる。
「なんだよ!秘密兵器だぞ!秘密兵器!」
人の心には敏感なくせに、こういうところがほんっと馬鹿なんだよなー、と思いながらリカコはザックの方ににじり寄る。
「問題なのは中身」
リカコがザックの中身を引っ張りだすとそれは黒いネットだった。
「なにこれ?」
「サッカーゴールのネット」
アキラの代わりに先ほどからずっとぶすくれて黙っていたユウトが答えた。
「サッカーのぉ?!」
リカコは自分の声を出した途端こらえきれなくなって吹き出した。大きな荷物と、アキラのニヤニヤ笑いと、ユウトの膨れっ面。それらが全部リカコの中で、ジグソーパズルのピースのように組み上がった。笑いが止まらない。そんなリカコの様子を見ているアキラは、やっぱりニヤニヤ笑いながらドヤ顔をしているし、ユウトはやっぱり仏頂面をしている。
「何がそんなにおかしいんだよ」
ユウトがボソリとつぶやくように言う。
「ゴールネットって、バカじゃないの」
リカコはなんとかそれだけを言葉にする。それでも笑いは止まらない。
「バカって言うな」
唇を尖らせてそう答えるユウトは明らかにバカであることを自覚している。
近所にサッカーゴールがあるところは、限られている。小学校、中学校、そしてコミュニティセンターの三つしかない。
コミュニティセンターにあるゴールネットは普段は外されており、必要な時にしかゴールに取り付けられない。必要ない時は取り外されて、建物の中にある倉庫に眠っている。中学校のゴールネットは古くてボロボロ。だとすると、正解は残りのひとつしかない。小学校のゴールネットだ。
「あー、おかしい。学校には許可もらってないくせに」
ようやく収まって来た笑いをおさえながらリカコが言う。涙を浮かべて、腹をかかえている。アキラの無茶はいつもの事の筈なのに、よっぽど笑いのツボにハマったらしい。
「許可なんか取るわけねぇし」
アキラはニヤニヤ笑いを張り付かせたまま床に座り込んだ。
「なんでアキラの犯罪に、ボクが付き合わされなきゃいけないんだ」
ユウトのふてくされた態度の原因はそこだ。つまり、二人で深夜の小学校に忍び込み、サッカーゴールネットをひっぺがして持って来てしまったのだ。
「そう言うなって。ちゃんと返すし」
「そういう問題じゃないっ!」
キレそうになるユウトにリカコは笑顔を向ける。ユウトの左肩に手を置く。
「なんとかなるって」
「なんとかならなかったらどうするんだよ」
どうやら笑顔では誤魔化されてくれないらしい。
「なんとかするんだよ」
アキラが右肩に手を置いてにこやかに言った。
ユウトは深い溜め息をつくしかなかった。
龍の泉-3
目の前に青空が広がっている。視線を下に移すと、そこにはいつもは自分たちが生活している街が見下ろせる。三人が住んでいる幟町(のぼりまち)だ。その幟町の真ん中を横切るようにして龍玉川が流れている。三人の足元、山の麓から緩やかなカーブを描いて龍玉川に流れているのが髭川だ。それらの川面が、空と陽光に照らされて銀色に輝いているのが見える。まるで銀の龍が幟町を横切って行こうとするかのように。
新緑の中をやや涼しい風が横切って行く。風は緑の葉を揺らし、見晴らしのよい野原を駆けて、アキラの頬をかすめて通り過ぎる。風が気持ちいい。カラリと晴れた5月の空気は、灼熱の日差しとは程遠く、空気もどことなく澄んでいるように感じられる。
アキラはペットボトルの蓋を開けて、勢い良く喉に流し込んだ。
そのアキラの右横の地面にはユウトがへたり込んでいる。リカコは左手にある少し高くなった見晴らしのいい場所で伸びをしている。
「ユウト、完全に運動不足だな」
笑いながら冗談っぽく言ったものの、その言葉がユウトをムキにさせる事は知っている。
「悪かったな」
ふてくされるユウトにアキラは顎でリカコをさす。
「わかってるよ」
ユウトは地面に転がっているトレッキングステッキとペットボトルを勢い良くつかんで立ち上がった。一応ユウトにも男の意地というものはあるのだ。
ま、あいつは別格だけどな。
アキラは心の中でそう呟いて、ペットボトルをポケットにねじ込む。
「なにしろ鍛え方が違うからなぁ」
リカコの方へとしっかりした足取りで歩いて行くユウトの背中を見ながらアキラは苦笑する。ユウトに気合いを入れさせるためのこのやり方は、相手がリカコだからこそ使えるやり方なんだとアキラは知っている。ユウト本人ですらその事に気づいていないだろう。それもアキラの性格の為せる業だ。
けれどもアキラはそんな人の動かし方の危うさを嫌というほど知っている。早いうちから父親の事務所に遊びで出入りするようになったアキラは自分の父親が部下の感情を見ながら、上手にやる気を引き出している事に気付いた。それを自分に当てはめてみると、アキラ自身も父親に感情を見ながら話かけられていた。初めは嫌悪感しかなかった。だが、しばらくすると父親のやり方に吐き気がするほどの憤りを覚えた。自分は父の操り人形ではないと思った。しかし、そんな苦しい日々は長くは続かなかった。自分の父親が何の為にそんな事をやっているのか、それをアキラに直接教えてくれたからだった。
今のアキラなら分かる。時と場所を間違えない言葉は、人の励みになる。そして時と場所と言葉を間違えず、人の最大限の力を発揮させる事ができるのが、人の上に立つことができる大人なんだと。
しっかりと靴紐を結び直すと、アキラはユウトの背を追いかけるようにして足を踏み出した。視線はリカコが立っている丘の方を向いている。
ふと、リカコの後ろの茂みが不自然にざわざわと揺れた。
何だ?
アキラが目を凝らすと茂みの奥に黒い影がちらりと見動く。
クマ?!
先日新聞の地方欄の片隅に載っていた「ツキノワグマの足跡見つかる」というタイトルを冠した記事がアキラの脳裏をかすめた。
「リカコ!後ろ!!」
ほぼ同時に気付いたらしいユウトが大声で叫ぶ。リカコが後ろを振り返って茂みを見る。リカコもその茂みに何かが潜んでいることに気づいたようだ。
次の瞬間、アキラは信じられない光景を目にすることになった。リカコがじっと茂みに視線を向けたまま、背負ったリュックサックをゆっくりと下ろしたのだ。
リカコはリュックサックの頭部をポンポンと二度叩く。まるで、その中に居る龍之介を安心させるかのように。そして素早く脚を開き、腰を落とした。
「は?」
アキラは呆然と脚を止めてリカコの姿をまじまじと見つめた。
リカコは顔の前で両腕を交差して、息を吐きながら拳を腰の両脇へと引き絞っていく。空手の息吹だ。
「ばっかじゃねぇの?!」
我に返ったアキラが慌ててもう一度、リカコに向かって走りだす。その声に我に返ったユウトも同じく走りだす。
「我が迎撃拳に、迎え撃てぬ攻撃なしッ!!!」
リカコの雄叫びに反応するかのように茂みから巨大な黒い影が飛び出した。
「わああああああああああああああああああああああっ!!!」
黒い影が踊るようにして、リカコの方へと方向を変えた。リカコの眼前に黒い影が迫る。リカコがタイミングを合わせようと、右の拳をすっと引いた瞬間、まさにそのタイミングでユウトがリカコに胴タックルをかけた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!!!」
ユウトから胴タックルを食らったリカコはもんどりうって倒れ、なだらかな丘の上からアキラの視界の向こう側へと二人揃って転がり落ちて行った。
その直後、黒い影が猛烈なスピードで走り抜けた。その姿は熊よりもずっと低く小さい。
イノシシ?
熊よりも小さいとはいえ、襲われてはひとたまりもない。いくら空手が強かろうが、迎撃拳に迎え撃てぬ攻撃がなかろうがそれは人相手であればこそ。動物相手に空手で打ち勝ったなんていうのは空手の達人クラスの話である。ましてや中学生で女の子であるリカコが勝てるわけがない。
イノシシは転がり落ちた二人を無視するかのように、恐ろしいスピードでアキラの視界の隅へと消え去っていった。
「ユウト!!ナイス!!!」
一命を取り留めた二人の姿を確かめようとアキラが丘の上に走り寄る。
「ユウト!おい!ユウト!」
リカコの叫びが聞こえる。さては頭でも打って気でも失ったのか。
慌てて丘の上に辿り着いたアキラが目にしたのは、気の抜けた光景だった。
ユウトはまだリカコの腰に抱きついていた。そのユウトの頭を、リカコは叫びながら拳の腹でポカポカと殴っていた。
「アホ!ユウトのバカ!スケベ!変態!!ロリコン!!!」
その様子があまりにもおかしかったアキラは、思わず吹き出した。
「アキラ!笑ってんじゃない!!!こいつひっぺがしてよ!!!」
ポカポカと頭を殴られてもユウトはまだリカコの腰にしがみついていた。
龍の泉-2
きっかけは、リカコだった。
四月も半ばを過ぎて部活の勧誘活動もようやく一段落した頃に、アキラとリカコは共同で宿題をやっつけるためにユウトの家に遊びに行く習慣を復活させた。
小学校から続いていた習慣で、勉強が出来るユウトのノートを二人が自分達のノートに書き写す事が殆どだったが、ユウトはユウトでそれを気にするでもなく、幼馴染の二人が自分のノートを書き写す間、アキラが持って来た漫画を読んでいる事が多かった。
リカコはまるっきりの体育会系で、空手の練習もあったため、授業の殆どが睡眠時間としてあてがわれていた。アキラの方は勉強が出来る方だったが、授業中の殆どを漫画や読書に費やし、勉強と努力という二つの言葉を、全く切り離したかのような姿勢で授業に臨んでいた。
以前、アキラにユウトが「ボクのノートを取らなくてもアキラはちゃんといい点取れるじゃないか」と言ったことがある。アキラは、その端正な顔でニヤリと笑って、ユウトの肩を叩きながらこう言った。「ユウトのノートがオレにいい点数を取らせてくれるんだぜ」と。ユウトもそんなアキラの言葉を鵜呑みにするほどバカではなかったけれど、自分が役に立っているという実感がそれ以上の抗議を口に出させなかった。
そんな勉強の日に、滅多に遅刻しないリカコが遅れて来た事があった。
ユウトの部屋に飛び込むと、息を整えながらリカコはこう言った。
「龍之介を大人にしなくちゃ!」
一瞬、意味が分からずに、リカコの方を向いたままポカンとしてしまった二人だったが、それもいつもの事だと立ち直り、詳しい話を聞き出した。
話はリカコの家で飼っている、ウーパールーパーの龍之介の事だった。
龍之介がリカコの家にやってきて、もう5年ほど経つ。しかし、リカコは龍之介がこの歳になっても、成体になる気配すらない事を気にかけていた。ウーパールーパーは両生類だが、ネオテニーなので変態しないというのは、うっかり者のリカコの知るところではなかったのは言うまでもない。
そのリカコが全く変態する気配すらない龍之介を心配し、どうしたら成体になれるのだろうと悩んでいる、と二人に話をしたのは数日前の事だった。アキラとユウトは、漫画を読みながらそんな話を聞いていたため、リカコがどこまで本気なのかを測りそこねたような形になってしまっていた。そんな適当な意識しか持っていなかったところに、リカコのいきなり飛び込んでくるなり「大人にしなくちゃ!」発言だった。二人が驚いたのも無理は無い。
「大人にするって、どうやって?」
「大人にする方法、見つかったのか?」
ユウトとアキラがほぼ同じタイミングでリカコに質問をぶつける。
「野生に返すの」
制服のスカートのまま、ユウトの部屋の床に胡座をかき、烏龍茶を片手にリカコは二人にそう答えた。
「どこの野生だよ!」
今度は二人の声が綺麗にハモる。
リカコは烏龍茶を口に運びながら「待て」とばかりに左手で二人を抑える。勢い良く喉に流し込まれる烏龍茶の音が、間抜けな沈黙となってユウトの部屋を占拠した。
「ぶはぁっ」
派手に息をついたリカコは、まるでおっさんのようだ。少女の姿形はしているが、ユウトとアキラからしてみれば、中身がまるっきりおっさんなのでおっさんと言っても何の問題もない。本人の目の前で口に出すと、さすがに怒りの正拳突きが飛んでくるが、そんなところもおっさんだと専らの定評だ。
一息ついたらしいリカコが、説明を求めている二人に向き直る。スカートのポケットをがさごそと探し、結果その中から出てきたのは新聞の切り抜きだった。
地方版のページを雑に切り取ったその紙切れの中には、月越山の七合目の辺りにある龍ヶ渕という水場の記事が乗っていた。
月越山にはその麓を流れる龍玉川という川がある。その川に流れ込む支流、髭川が月越山から出ている。それほど大きな川ではないが、水量は豊富で澄んだ水が絶えた事はない。龍ヶ渕はそんな川の途中にあった。
「龍ヶ渕にオオサンショウウオがいるんだって」
リカコは烏龍茶を流し込み、一息つくとそう切り出した。
「は?」
「オオサンショウウオ?」
ユウトとアキラが素っ頓狂な声を同時にあげた。
二人ともオオサンショウウオが天然記念物であり月越山なんてところには居ないことを知っている。しかし、それを言ったリカコは自信満々だ。
「そう、オオサンショウウオ」
うなづきながら自信満々に間違えている。
「それ、サンショウウオじゃないの?」
ユウトは新聞の切り抜きを拾い上げて目を通す。
「ほら」
サンショウウオと書いてあるところを指でさしながらリカコに見せる。
「サンショウウオがいるなら、オオサンショウウオもいるでしょ」
リカコは一瞬ひるんだものの、あくまでも退く気はない様子だ。
「いないだろ」
アキラは冷たく突き放す。
「オオサンショウウオはサンショウウオが大きくなったものじゃないから」
ユウトが更に追い打ちをかけると、リカコはぶんむくれた。
「いたらどうすんだよー!」
意地っ張りなリカコは、こうなったら退かない。そういう性格なのだから仕方がない。場合によってはサンショウウオをオオサンショウウオだと言い張るだけに留まらず、オオサンショウウオをでっち上げないとも限らない。そういう無茶な一面がある。そんなリカコの性格をよく知っているユウトは、この会話の行き先にとてつもなく嫌な予感を覚えた。
「いねぇってば」
アキラは苦笑しながらまだリカコをからかっている。
「おい……」
「よぉし!分かった!行けば分かるじゃん!!」
ユウトがアキラを止めようとした瞬間、リカコがすっくと立ち上がった。
止めるのが少々遅かった事に気がついた。しかしそれは既に後の祭りだ。
「よっし!行こう!」
気が付くとアキラも立ち上がって腰に手を当てていた。この辺りは単なる「面白がり」の性格がゆえのノリだ。
「明日土曜日だからな!」
「ユウト、11時半に学校に集合な!」
二人はユウトを置き去りにして盛り上がっている。
「おい……二人とも……」
「龍が棲むとも言われてっからなぁー」
「なんつったって名前が龍ヶ渕だもんなぁー」
ユウトのわずかな抵抗は、二人の声にかき消される。
「行きたきゃ二人で行きゃいいじゃないか……」
ため息と一緒に吐き出されたユウトの呟きは、二人の耳にはまったく届いてないようだった。
龍の泉-1
強い日差しが照りつけている。下生えの草花は青々として茂って、常葉樹から溢れ落ちた木漏れ日が斑に色を飛ばしている。
5月の連休明け。もう夏に入れてもいいのではないかと思えるほどの真っ青な空の下、月越山の遊歩道を三人が登っていく。
先頭を歩くのはアキラ。そのすぐ後を歩いているのがリカコ。そしてやや離れてユウトが続く。体力的に男女の差があまり変わりのない中学生だが、アキラに続くリカコの足取りはしっかりしている。
それほど大きな荷物を背負っていないアキラとユウトに対して、リカコの背にあるのは青くて大容量のリュックサックだ。できるだけ揺らさないようにして、足を運んでいるその様子から体力にまだ余裕があることが分かる。
しかしそのリカコの様子とは裏腹に、最後尾を行くユウトの足取りの方が覚束ない。肩で息をして顎があがっているユウトはいかにも体の線が細く、時々度の強いメガネを外しては肩にかけたタオルで流れる汗を拭っている。
リカコがユウトの遅れに気が付いてアキラに声を掛ける。
「アキラ。ユウト遅れてるよ」
アキラはその声に立ち止まる。
ユウトもリカコの声に反応し、少々むっとした顔をして立ち止まった。
「ボクのことは気にしなくていいよ」
「そんなわけにはいかないだろ」
アキラが自分の袖で汗を拭いながら木々に隠れた月越山の稜線を見上げる。現在地は山の三合目辺りか。頂まではまだ程遠いが、目的地は山頂ではない。行程の半分は既に過ぎている。そろそろ休憩を入れてもいい頃か、とアキラはひとりつぶやく。
そんなアキラの様子を見て察したのか、ユウトは不満気にため息を漏らす。まだまだ歩けると言わんばかりに。しかし、その膝はわずかに震えていて、ユウトはそれを前の二人に悟られないように足を踏ん張った。
ユウトは悔しくなって、自分の情けない足元を見る。狐色のトレッキングシューズと厚めのソックスから伸びた、いかにも筋力のなさそうな、白くて細い脚。焦げ茶色した半ズボンのワークパンツに、襟付きの青緑ボーダーのポロシャツ。手には焦げ茶色のトレッキングステッキまで持っている。その装備はトレッキングのスタンダードだが、これ等が山登りに適している事は説明するまでもない。
しかし、アキラは黒いTシャツの上に白いワイシャツを羽織り、ジーンズにサッカーシューズという軽装だし、リカコにいたってはグレーで七分袖のパーカーにブルーデニムのショーパン、黒のニーソにコンバーススタイルのハイカットバッシュというカジュアルにも程がある格好だ。
ユウトなんかはその格好を見て、脚を怪我でもしたらどうするのだろう?等と思ってしまう。
「こんな格好をしているボクがまるで馬鹿みたいじゃないか」
ユウトは自分のトレッキングシューズに向かってつぶやく。
これだけ意識に差があるというのに、ユウトが遅れがちなのは、偏に体力の違いとしか言い様がないのだけれども、ユウトはそれを決して認めたくはない。実際、ユウトにとってはこれだけの装備なのに、なぜ自分が前を行く二人に遅れをとっているのか?という思いが強い。意識の問題ではないのだが。
とにかく、ユウトはそんな思いを地面にぶつけながら一歩一歩確実に脚を踏み出そうとする。しかし、非力な脚はそんな思いをよそにユウトのいう事を聞いてくれそうにない。
「とりあえずこの先に平らなところあるからさ」
アキラが急勾配に登っていく山道の先を指さす。
「そこで一旦休憩しようぜ」
「龍之介にもご飯食べさせなきゃいけないしね」
リカコが背負ったリュックサックを気にかけながらそう言った。
「龍の泉」について
本日より、短編小説「龍の泉」をリリースしていきます。
ジャンルはそうですね……青春モノ?w
話数は7話で、週に2回位のペースで日、水のリリースにしようかなと考えています。
前に載せていた「Deeper」もそうだったんですが、この「龍の泉」も同人誌に寄稿したものです。
創作集団スターボードというところでして、ここでは面白いことに落語の「3題噺」になぞらえたお題つきの物語を年に二回同人誌としてまとめています。
この「3題噺」を「3題話」として活かし、3つのキーワードを物語の中に必ず登場させなければならないというものです。
前回のDeeperでは「さよなら三題話」として、「さよなら」「車輪」「仮免」のキーワードでした。
今回の龍の泉では「リベンジ三題話」として、「リベンジ」「パンツ」「オオサンショウウオ」がお題になっています。
そういった側面からもお楽しみ頂けるかなと。
三題話に興味を持たれた方は、こちらからコンタクトで問い合わせると、三題話を購入できるそうな。
それでは、龍の泉をお楽しみ下さい。
Deeper - 4
「お邪魔しまぁす」
腕を鳴らしながら部屋の中に入るとゲジゲジの姿が見えない。どこいった?
「このクソシロクマゴリラが……覚えていなさいよ」
誰も入居していない部屋の片隅からゲジゲジの声が聞こえる。匂いもそこにいる。が、姿は見えない。なるほど。新型の迷彩か何かか。
「シロクマじゃぁねぇつってんだろうが」
確かな匂いを手がかりに移動し続けるゲジゲジの腹を蹴り上げる。
「ぐぼぁっ?!」
胃液を吐きながらゲジゲジが姿を現してのたうち回る。吐く胃液はあるんだな。などと感心する。こいつ人間だったのか。なんだかちっとも人間だと思っていなかった自分に気づいて苦笑する。右肩についている物々しい軽機関銃を掴み、捻って毟り取る。
「これでもなぁ、ちゃんと狗神の血を引いてんだよ」
のたうち回っている背中を右足て踏みつけ、逆立っている金髪を掴んで顔をこちらに向かせて睨む。
「ひ、ひぎぃっ!!」
ゲジゲジが腰の後ろに収まっていた刃渡り20センチほどのナイフを引き抜くとオレの脚を払いに来た。意外にもまだまだ元気だ。
刃を避けようとして脚をあげた瞬間、ゲジゲジは車輪に全駆動をかけて逃走を図る。こうなってくると、ゲジゲジではなくてゴキブリみたいだな。
破壊された窓枠でゴキブリを串刺しにしてやろうか。
窓枠の邪魔な部分を取り除き、投げつけようとした瞬間、女の声が耳朶を打った。
「逃げられるわけないじゃない」
その声は、ゴキブリに向けられたものなのか、オレに向けられたものなのか、それとも自分自身への……。
「この街の中のいたる所にあたしの目があるんだから」
窓の外。隣のマンションの屋上。振り返る。
振り返った先に、朝の爽やかな空を背景に、灰色の墓標と化した高層マンションがあった。その高層マンションのすべての部屋の窓に写る眼。チリチリと音を立てて体毛が逆立って行く。
なんだ……あれは。
「さよなら」
そして、銃声。
床に這いつくばったまま動かなくなったゴキブリ。
その瞬間、オレは思い出していた。
盲目の狙撃手。
8年前。
壊滅した特殊部隊。
生き残りはオレだけではなかったのか。
死と同時に歪んだ遺伝子を呼び起こすクスリ。
DEEPER。
すべての窓から覗く瞳。
すべての障子の格子の中から覗く瞳。
『目目連』
「ようやく思い出してくれました?隊長?」
気が付くと女が立っていた。
「あぁ。お前、眼は……」
「DEEPERから逃げ切ったら視力が戻ったんですよ。顔ももちろん整形で」
「そうか……オレだけじゃなかったのか」
思わず零れた溜息は、安堵か陰鬱か。
女は軽く微笑むと破壊された窓から空を見上げた。
「整形でも美人に言い寄られると悪い気はしないでしょ?」
思わず笑みが溢れる。
「しかし、この騒ぎは一体何だ……」
「あのゴキブリは新型のDEEPERってとこかなぁ」
「新型?」
「そ。先祖返りの確率があまりにも悪すぎるから、人工で作っちゃえって」
「人工でオレたちみたいなのを作ろうってのか?」
「そういう勢力がいるの」
軍?政府?いずれにしてもきな臭い話だ。
「お前は?」
「アタシは、さっきので分かったと思うけど、オリジナルの方」
「目目連か」
「隊長は狗神ね」
「あぁ、そうだ」
DEEPERの副作用をくぐり抜けて生き延びた者に与えられた「先祖返り」。
どうやら日本人というのは、混じりっ気なしの「人間」だけではなく、少数ではあるが「物の怪」も自覚もなしに人間として生活していたらしい。
その末裔がDEEPERによる覚醒という副作用を乗り越えると、先祖が本来持っていた「兵器」としての能力を取り戻す事ができるらしい。
狗神は強靭な身体と驚異的な身体能力。目目連は索敵と狙撃精密度。
これが先の紛争で日本が圧倒的な量を誇る連合軍を退けた奥の手だった。
「で、連中がオレを狙う理由は?」
「ロストナンバー……って言ったらカッコいいけど、初期に覚醒しちゃって軍側で捕捉できなかった野良のDEEPERを切り刻んで、新型DEEPERの為のモルモットにしようってさ」
「で、レギュラーナンバーであるDEEPERのお前が出張って来たってわけか」
「そーゆーことね」
折角息を潜めて地味に生きてきたのに、その苦労が一日にして泡と消えたらしい。
「で、お前が属する側にオレがモルモットにされないという保証は?」
「……隊長、アタシ、仮免どうです?」
仮免……?仮免ってなんだ?
「あー、隊長、完全に忘れてるなぁ……」
溜息をついてふくれっ面になる。
「大人になったら彼女にしてやるって約束したじゃぁないですかー。もー」
あー……。そんな事、言ったっけ。
「8年前っ!まだ早すぎるからまずは仮免合格目指せ!ってアタシに説教したの誰よーっ!もーっ!」
「あー……。えー……」
「いいもん、忘れられたって気にしないもん。さ、昨夜の続きしましょーっ!アタシ血を見るとちょっと興奮しちゃうんだよねー」
「いや待て。ちょっと待て」
オレの部屋はボロボロだぞ?と思ったが、そういう問題でもないような……。
いや、待てよ。何か大事なことをはぐらかされてるような……オレの身柄の保証……。
あっ!
「オレを説得できる気がしないからハニーポットかよ!!」
「あ、ヤバい。バレちゃった」
「ふざけんな!逃げてやる!」
「あーっ!ちょっと待った。待ってーっ!隊長ーっ!」
Deeper - 3
キリッー。
窓の外から聞こえる微かな機械音。目の前の女もオレに銃口を向けたまま振り返る。
迂闊にも程がある。が、動けない。何者かに見られている。いや、この視線はこの女のものだ。しかし女は窓の方を見ている。これは一体……。
次の瞬間、窓ガラスが割れて部屋の中に何かが投げ込まれた。フローリングの上に転がるスプレー缶のようなもの。咄嗟に目を逸らして床に伏せる。
閃光。
しかし、音もしなければ周囲に散らばる榴弾片もない。白い世界が瞼越しにも網膜に焼き付く。
フラッシュバンだと?!
女の悲鳴が聞こえた。閃光を直視したか。直視を避けて床に伏せたオレですら視界は白く封じられている。直視ならば失明の危険性もある。あの女からは逃げられる。そう、逃げるなら今のうちだが……。
しかし、女もろともフラッシュバンの洗礼を受けたってことは、襲撃者と女は仲間じゃないって事だよな?ということは第三者からの襲撃?
閃光弾が放り込まれた逆の窓からガラスの破壊音。やっぱり逃げられねぇか。
全身の筋肉をたわませて跳ぶ。モーターのような機械音。そしてばら撒かれる銃声。
壁。体勢を入れ替えて壁を両足で蹴る。再び跳躍。今度は天井を蹴って窓の外に。
女の悲鳴は聞こえない。銃弾が肉を抉る音もない。逃げたか。だが視界を奪われているのにどうやって?
知るか。今はそれどころじゃない。
膨張したかのように筋肉の塊と化した身を丸め、割れたガラス戸に突入する。被害は甚大だ。誰に請求していいものやら。ベランダの手摺を蹴って方向転換をすると上階の手摺を掴み、更に身体を上へ押し上げる。
「クケケケケケケケケケケケケ」
耳障りなモーター音と共に不気味な笑い声が追って来る。さぞかし声の持ち主は変態的な姿をしているに違いない。今はホワイトアウトした視界のお陰でその姿を見ることはできないが。
「待ちなさいよぉ〜」
おい、変態声な上にオネェ言葉かよ。
目は見えなくても移動することはできる。上階のベランダへの手摺の距離は等間隔。おおよそのところは身体で覚えている。あとは手摺を掴むタイミングの問題だ。それよりもなによりも、問題なのはこの目が利かない状態のまま戦闘になる事だ。相手も状況も分からないまま盲目のまま戦うなら、このまま逃げに徹したいところだ。
軽機銃の連続した銃声。真っ白に伸びた体毛が僅かな風の変化を察知して危機を伝える。オレは横っ飛びにマンションの壁面を蹴り、更に上階を目指す。
あと10秒。
「アタシの真っ赤に焼けたロケランをアンタのケツにぶち込んでやるんだから……」
変態的だと思っていたが、こいつは本物の変態じゃねぇかよ。
変態が完全に完了し、フルパワーが使える。フラッシュバンで潰れた視界が回復する。そして、屋上に到達する。あと8秒。
「待ちなさいっつってんでしょう!シロクマ野郎!」
偏執的でいて甲高い癪に障る声。変態にシロクマ野郎呼ばわりされる覚えはねぇ。
あと5秒。
「うっせぇよ」
吐き捨てて最後の手摺に手を伸ばす。その瞬間を狙って銃弾の掃射。
「アタシの腕の中に落ちて来なさい、シロクマちゃん」
マンション最上階ベランダの手摺をスルーし、ベランダの庇に手をかける。1秒程足りないがなんとかなんだろ。ベランダの庇にかかった全体重を両腕で支え、強引に方向転換する。となりのマンションの壁面へ。
見えた。
やたらと細長い手足。肘から手首にかけてと脛に無数の車輪。それらをモーターで動かして壁面を登っているのか。どうやって壁面にへばり付いているのかは謎だがそれにしても異様な姿だ。四つん這いよりも低く構えられた土下座のような姿勢。肩口には軽機関銃とロケットランチャー。ヘンテコなボンデージ風デザインの黒い合皮ファッション。まるで出来損ないのゲジゲジの玩具だ。
シロクマじゃねぇよ、ゲジゲジめ。
隣のマンションを利用した三角飛び。壁面から渾身の力で跳ぶ。案の定、ゲジゲジ野郎はオレの姿を見失ったようで車輪を止めて屋上の方を探している。その背中へ。
「おるらぁっ!」
スピードと体重を思い切り乗せて組んだ両手を振り下ろす。
メキャッ。
軽金属がひしゃげるような音をたてながらゲジゲジ野郎の背中がエビ反りに曲がる。
ゲジゲジの左肩に乗っかっているロケットランチャーの砲筒を右腕で掴み、左腕でベランダの手摺を掴んで姿勢を固定する。そのまま掴んだ砲筒をぶん回してゲジゲジをマンションの壁面へ。
ベシンッ。
なんだか蛙が鳴いたような酷い悲鳴が聞こえたがキノセイに違いない。
今度は腕を振り上げ、階上の窓から部屋の中にゲジゲジを放り込む。派手な音をたててゲジゲジが部屋の中に投げ出される。それを追いかけるようにしてオレも部屋の中へ。