龍の泉-3
目の前に青空が広がっている。視線を下に移すと、そこにはいつもは自分たちが生活している街が見下ろせる。三人が住んでいる幟町(のぼりまち)だ。その幟町の真ん中を横切るようにして龍玉川が流れている。三人の足元、山の麓から緩やかなカーブを描いて龍玉川に流れているのが髭川だ。それらの川面が、空と陽光に照らされて銀色に輝いているのが見える。まるで銀の龍が幟町を横切って行こうとするかのように。
新緑の中をやや涼しい風が横切って行く。風は緑の葉を揺らし、見晴らしのよい野原を駆けて、アキラの頬をかすめて通り過ぎる。風が気持ちいい。カラリと晴れた5月の空気は、灼熱の日差しとは程遠く、空気もどことなく澄んでいるように感じられる。
アキラはペットボトルの蓋を開けて、勢い良く喉に流し込んだ。
そのアキラの右横の地面にはユウトがへたり込んでいる。リカコは左手にある少し高くなった見晴らしのいい場所で伸びをしている。
「ユウト、完全に運動不足だな」
笑いながら冗談っぽく言ったものの、その言葉がユウトをムキにさせる事は知っている。
「悪かったな」
ふてくされるユウトにアキラは顎でリカコをさす。
「わかってるよ」
ユウトは地面に転がっているトレッキングステッキとペットボトルを勢い良くつかんで立ち上がった。一応ユウトにも男の意地というものはあるのだ。
ま、あいつは別格だけどな。
アキラは心の中でそう呟いて、ペットボトルをポケットにねじ込む。
「なにしろ鍛え方が違うからなぁ」
リカコの方へとしっかりした足取りで歩いて行くユウトの背中を見ながらアキラは苦笑する。ユウトに気合いを入れさせるためのこのやり方は、相手がリカコだからこそ使えるやり方なんだとアキラは知っている。ユウト本人ですらその事に気づいていないだろう。それもアキラの性格の為せる業だ。
けれどもアキラはそんな人の動かし方の危うさを嫌というほど知っている。早いうちから父親の事務所に遊びで出入りするようになったアキラは自分の父親が部下の感情を見ながら、上手にやる気を引き出している事に気付いた。それを自分に当てはめてみると、アキラ自身も父親に感情を見ながら話かけられていた。初めは嫌悪感しかなかった。だが、しばらくすると父親のやり方に吐き気がするほどの憤りを覚えた。自分は父の操り人形ではないと思った。しかし、そんな苦しい日々は長くは続かなかった。自分の父親が何の為にそんな事をやっているのか、それをアキラに直接教えてくれたからだった。
今のアキラなら分かる。時と場所を間違えない言葉は、人の励みになる。そして時と場所と言葉を間違えず、人の最大限の力を発揮させる事ができるのが、人の上に立つことができる大人なんだと。
しっかりと靴紐を結び直すと、アキラはユウトの背を追いかけるようにして足を踏み出した。視線はリカコが立っている丘の方を向いている。
ふと、リカコの後ろの茂みが不自然にざわざわと揺れた。
何だ?
アキラが目を凝らすと茂みの奥に黒い影がちらりと見動く。
クマ?!
先日新聞の地方欄の片隅に載っていた「ツキノワグマの足跡見つかる」というタイトルを冠した記事がアキラの脳裏をかすめた。
「リカコ!後ろ!!」
ほぼ同時に気付いたらしいユウトが大声で叫ぶ。リカコが後ろを振り返って茂みを見る。リカコもその茂みに何かが潜んでいることに気づいたようだ。
次の瞬間、アキラは信じられない光景を目にすることになった。リカコがじっと茂みに視線を向けたまま、背負ったリュックサックをゆっくりと下ろしたのだ。
リカコはリュックサックの頭部をポンポンと二度叩く。まるで、その中に居る龍之介を安心させるかのように。そして素早く脚を開き、腰を落とした。
「は?」
アキラは呆然と脚を止めてリカコの姿をまじまじと見つめた。
リカコは顔の前で両腕を交差して、息を吐きながら拳を腰の両脇へと引き絞っていく。空手の息吹だ。
「ばっかじゃねぇの?!」
我に返ったアキラが慌ててもう一度、リカコに向かって走りだす。その声に我に返ったユウトも同じく走りだす。
「我が迎撃拳に、迎え撃てぬ攻撃なしッ!!!」
リカコの雄叫びに反応するかのように茂みから巨大な黒い影が飛び出した。
「わああああああああああああああああああああああっ!!!」
黒い影が踊るようにして、リカコの方へと方向を変えた。リカコの眼前に黒い影が迫る。リカコがタイミングを合わせようと、右の拳をすっと引いた瞬間、まさにそのタイミングでユウトがリカコに胴タックルをかけた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!!!」
ユウトから胴タックルを食らったリカコはもんどりうって倒れ、なだらかな丘の上からアキラの視界の向こう側へと二人揃って転がり落ちて行った。
その直後、黒い影が猛烈なスピードで走り抜けた。その姿は熊よりもずっと低く小さい。
イノシシ?
熊よりも小さいとはいえ、襲われてはひとたまりもない。いくら空手が強かろうが、迎撃拳に迎え撃てぬ攻撃がなかろうがそれは人相手であればこそ。動物相手に空手で打ち勝ったなんていうのは空手の達人クラスの話である。ましてや中学生で女の子であるリカコが勝てるわけがない。
イノシシは転がり落ちた二人を無視するかのように、恐ろしいスピードでアキラの視界の隅へと消え去っていった。
「ユウト!!ナイス!!!」
一命を取り留めた二人の姿を確かめようとアキラが丘の上に走り寄る。
「ユウト!おい!ユウト!」
リカコの叫びが聞こえる。さては頭でも打って気でも失ったのか。
慌てて丘の上に辿り着いたアキラが目にしたのは、気の抜けた光景だった。
ユウトはまだリカコの腰に抱きついていた。そのユウトの頭を、リカコは叫びながら拳の腹でポカポカと殴っていた。
「アホ!ユウトのバカ!スケベ!変態!!ロリコン!!!」
その様子があまりにもおかしかったアキラは、思わず吹き出した。
「アキラ!笑ってんじゃない!!!こいつひっぺがしてよ!!!」
ポカポカと頭を殴られてもユウトはまだリカコの腰にしがみついていた。