龍の泉-7
祠に手を合わせて聞いてみたけれど、やっぱり答えはどこからも返ってはこなかった。
リカコは思う。やっぱりあのお爺さんの言う通りに龍之介にも聞かなきゃ。
リカコは龍之介が入った小さな水槽を手にして岩場の対岸へと向かった。泉の入り口側から回りこんで、急勾配になる斜面と泉の間にある小さな岸に立つ。水槽を地面に置いて蓋を取ると、龍之介はのんびりと水に浮いていた。
リカコは龍之介の柔らかな体をそっとすくう。目の前に持ってきて、心の中で語りかける。
ねぇ。龍之介はどう思うの?
もちろん、龍之介からの返事はない。
キミも、あたしと離れてしまうのはつらいのかな?
リカコは龍之介を泉へと下ろした。龍之介は泉の水面を漂って、しばらくじっとしているようだったが、不意に向きを変えるとリカコに顔をあげた。そして短い手足をジタバタとさせてリカコの居る岸へと泳ぎだした。
その姿が、あの冬の日の子猫の姿と被る。
「そっか」
リカコは龍之介をすくい上げる。
大人になるには強くなければいけないと思っていた。独りで歩いて初めてその強さを得られるのだと思い込んでいた。けれどもその強さは大切な人と別れてまで手に入れなければならないものではない。決して。
「キミもゆっくりでいいんだね」
リカコはそうつぶやいて龍之介を再び小さな水槽の中へと入れた。
その瞬間。ドパーンと派手な音を立てて泉から盛大な水しぶきが上がった。そのあまりの勢いに悲鳴をあげる。中空に跳ね上げられた水しぶきが、ザッと音を立ててリカコに降り注いだ。小さな水槽を抱きかかえるようにして身をひねるとバランスが崩れて、リカコは後ろの傾斜の方に派手に転んだ。
それでいい。
そんな声が聞こえた気がした。
そんなに背伸びしなくても大丈夫だから。
声のした方向、泉の上を見ると、今まで見たこともないようなはっきりとした虹がかかっていた。リカコはその虹を見上げる。
そっか、これでいいんだ。
どこからともなく聞こえてきた声に納得する。あんなに大人になりたいと強く願っていた自分が馬鹿みたいだと思える。
リカコは虹を見上げながら、笑っていた。焦っていた自分を。無駄に力が入ってしまっていた自分を。
ふと気付くと、対岸の岩場でアキラが声をあげて笑っている。けれども、それはリカコと同じ種類の笑いではなく、リカコの方を指さしながら笑っているようだった。
「何がそんなにおかしい」
自分の心を笑われたような気がしたリカコはアキラに食って掛かった。
腹を抱えて笑っていたアキラは苦しそうにこう言った。
「だって、お前、そのかっこ。パンツ見えてんぞ」
リカコは斜面に寝転んだようになっている自分の姿を見る。転んだ瞬間に腰のあたりまでミニ・スカートの裾がめくれあがっていた。しっかりパンツが見えている。
「わああああああああっ!!」
リカコは龍之介の入った水槽を置き、慌ててスカートの裾をなおして立ち上がった。アキラは腹を抱えてまだ笑っている。ユウトは赤くなってあらぬ方向を見ていた。恥ずかしさと怒りがリカコを支配した。
「殺す!!!」
リカコは対岸に向かって走った。動揺したアキラとユウトは反射的に逃げ出そうとしたが、逃げ道はリカコが鬼の形相で迫って来ている側の遊歩道へ登る入り口しかない。
「ちょっと待て!!」
「なんでボクまで!!」
リカコは二人の抗議を全く無視して横薙ぎに蹴りを繰り出す。リカコの蹴りは、ガードした腕ごとユウトの胴体を見事に吹き飛ばし、リカコの蹴りをかわした筈のアキラまでも巻き込んで、二人まとめて泉の中へ叩き込む。派手な音と水しぶきがあがった。
「参ったか!!」
リカコは仁王立ちになって、泉に落ちた二人を見下ろす。二人は浅い泉からのろのろと立ち上がってきた。
「ひっでぇ……」
濡れネズミになったアキラが抗議したが、リカコはその声をスルーして、笑いながら木々の間からこぼれ落ちる5月の陽射しを見上げた。
不思議と気分は良かった。
泉の上には、また虹がかかっていた。
そして、びしょ濡れのまま家に返ったユウトは風邪を引いて寝込んだ。
アキラはサッカーのゴールネットを拝借した小学校の先生達から呼び出しを食らったが、適当な理由をでっちあげて口八丁で丸め込んだ。
龍之介はリカコの部屋にある水槽の中で平和そうに浮かんでいる。
三人が龍之介と一緒に行ったあの泉は、その後になって探しに行っても、決して辿り着く事はできなかった。
龍の泉-6
見たこともない光景が目の前に広がっていた。
5月の強い陽射しは青々と茂った常葉樹にその殆どを遮られ、その間からこぼれ落ちた光は、フィルターを透過したかのように緑と青を強めている。彩られた光はこんこんと湧き上がる泉の水面に落ち、仄かに青いきらめきを放ちながら反射して澄んだ空気へと四散していく。下生えの草達は、まるで泉の周りだけ遠慮をするかのように控えめにしか生えていない。遊歩道から外れて谷あいからしか入れない唯一の入り口には木々が鬱蒼と茂り、まるでそこの空間だけを人の目から隠しているようにも見える。入って右手の傾斜の方は、少しばかり平らな岸があり回り込めるようになっている。対岸は崖。途中から妙な角度で伸びている樹木が、その緑の葉を垂らして水面に映えている。左手側は岩場になっていて、ここから湧いた水は巨大な岩と岩の隙間へと消えて行っているようだ。
自分のイノシシ捕獲作戦が全くの無駄になって少々むくれていたアキラは、この光景を目の当たりにするなり自分の不機嫌さを忘れた。
「すげぇ……」
呆然としてつぶやく。
アキラの後をついてきていたリカコとユウトは、泉に見とれていたアキラをいつの間にか追い越して、泉のほとりにたどり着いていた。アキラも我に返って二人の後を追う。
「ここが龍ヶ渕?」
いや、違う。アキラには確信があった。確かに龍ヶ渕へ行くルートを辿りスマホの位置情報サービスも間違いなくここを龍ヶ渕だと指してはいるが、ここは龍ヶ渕ではない。
「ここじゃない」
慎重でゆっくりとした、しかし確信に満ちたアキラの声に、泉しか見えていなかった二人が振り返る。
確かにここは龍ヶ渕ではない。以前に父親と来た龍ヶ渕はこんな感じではなかった事をアキラははっきりと覚えている。もっと大きかったし、もっと暗く鬱蒼としていた。何よりも龍ヶ渕は川が流れこむ渕なのであって、水が湧き出る泉ではないのだ。
「じゃぁ、ここは?」
リカコが泉へと視線を戻す。
「わからない」
アキラは正直に答えた。
「なんだそれ……どういうこと?」
ユウトがポケットから自分のスマホを取り出してロックを解除する。操作してじっと見た後、アキラに目を向ける。
「龍ヶ渕だろ、ここ」
自分達の居る場所を確認したようだ。アキラに向かって歩きだそうとしたその瞬間、左手の岩場から声がした。
「何をしているんだい?」
ゆったりとした優しい声だった。そこに人が居るとは思わなかった三人の視線が一斉に岩場の上へと集まる。岩場の上には見事なヒゲをした、白髪の老人が釣り糸を垂らしていた。白のちりめんに紺のトンボが描かれた作務衣を着たその老人はゆっくりと釣り竿をあげると岩場から三人の姿を見下ろしている。
「ここは龍ヶ渕ですか?」
アキラが前に進み出て、自分達が感じている疑問を口にした。
老人は驚いたようにアキラ達を見て、そして穏やかに微笑む。
「ここは龍ヶ渕ではないな」
「おい、アキラ」
ユウトはアキラに説明を求めようとする。場所は間違いなくそうだ。だが、唯一龍ヶ渕に来たことがあるアキラには、ここは見覚えのない不思議な場所だとしか映っていない。
「じゃあ、ここはどこですか?」
「名前はないんだよ」
老人はニコニコと笑いながら立ち上がる。脇にどけた釣り竿と竹で編んだビクを手に持ち、岩の裂け目に作られたらしい階段を伝って1メートルほどの高さもある巨岩から危なげない歩調で降りてくる。
リカコはリュックサックを足元に降ろして、龍之介が入った小さな水槽を取り出した。
「それはなんだい?」
老人はリカコが手に持つ水槽に興味を持ったようだった。
「龍之介っていいます。ウーパールーパーの」
「ほうほう」
老人はリカコが持つ水槽をのぞき込むと、しばらくじっと見ていた。誰も何も喋らなかった。
「それで、この龍之介がどうしたんだい?」
龍之介から目を離した老人はリカコの顔をのぞき込んでニッコリと笑った。
リカコはこれまでの話をし始めた。龍之介を龍ヶ渕へと連れて来たかった理由、イノシシの妨害、真夜中の学校侵入、イノシシの捕獲計画。老人は、うなずきながら、時折絶妙なタイミングで相槌をうちながら聞いていた。
「ここには、龍之介は住めないのかな?」
リカコは老人への質問でその話を締めくくった。
「さぁて、どうかな」
いつの間にか三人は老人を囲んで岩場の上に座っている。老人が、足腰が弱ってキツいのでな、と言った言葉だけが妙にアキラの頭の中に残っていた。
「住めないのかな……」
リカコのかすれた力のない声に、ユウトが泉を覗きこんだ。
「水は綺麗だし魚もいるし龍之介の餌になりそうな苔や微生物もいっぱいいると思うんだけど……」
アキラもユウトの言葉に釣られて泉を覗き込む。黒い小さな影が、素早く泳いでいるのが泉の水面に映っている。確かに両生類が住み着くにはとてもあっている場所だと思えるし、とても素敵な場所だとも思えた。アキラは、本来の目的地がこの泉ではなく、龍ヶ渕だという余計なツッコミは言わないようにしようと思った。
「住めるとは思うんだがな」
泉の方を見て老人は穏やかに微笑む。それは確かに穏やかなものだったが、どこか哀しげで寂しそうな表情だとアキラには感じられた。
「龍之介に聞いてみるのもいいと思うぞ」
老人は三人に視線を戻し、確認するかのように言った。
「龍之介に?」
「そうだ。誰と一緒にいたいか?どこに住みたいか?は龍之介にも希望があるんじゃないのかな」
そう言うと老人は釣り竿と魚篭を持って立ち上がった。三人のまるで問いかけるかのような視線に微笑みながら、座ったままのリカコの頭に手を置く。
「龍之介を大人にさせたいのは分かる。だけど龍之介はどうなのかな?」
老人の穏やかな声がアキラの胸にも響いた。
そうだ。かっこいい大人になりたいのは龍之介じゃなかったんだ。アキラは唐突に気付いた。それはリカコの願望であり、自分達の願望だったんだと。リカコもアキラも、はやくかっこいい大人になりたいという自分達の願望を龍之介に背負わせようとしていただけなのかもしれない。そう思った。その一方でユウトがこの話にあまり乗り気になれない理由も分かった気がした。ユウトは環境の変化に敏感だ。そこまで無理をして背伸びをしてまで大人にならなくてもいいと感じているのかもしれない。
老人を見上げていたリカコがうつむいた。リカコもそれに気付いたようだ。
「そんなに慌てる必要はないんじゃないかな」
ゆっくりと言い聞かせるような言葉が胸にしみる。
老人は泉から立ち去ろうとしていた。泉から遊歩道へ登る入り口に立って、ゆっくりと振り返った。
「君達ならきっと大丈夫だよ」
その笑顔は優しさに満ちている。
「よかったら後ろにある祠にお参りして行きなさい。何か答えが見つかるかもしれないから」
アキラは後ろを振り返る。確かに岩場の奥まった場所に小さな祠があった。
立ち上がって祠の前に行く。古く苔むした小さな祠。そこには読みにくい風化した文字で文字が彫られていた。指でなぞると「竜王吼菩薩」と彫られているのが分かる。
アキラが泉の入り口を振り返ると老人はもう居なかった。
「お参りする?」
ユウトがつぶやくようにリカコとアキラに聞いた。
「うん」
すっかりしおらしくなってしまったリカコがうなずきながら返事をする。
三人はひざまずき、古い祠に手を合わせた。
龍の泉-5
アキラが練った作戦はこういったものだった。
まず、イノシシが出た見晴らしのよい丘から、100メートルほど下った所にゴールネットで罠を作る。アキラは昨日下山する時にしっかり地形を確認していたようだ。
そこには竹林があり、吊り上げ式の罠を作るのには、最適な場所だという事だった。竹で覆われた遊歩道から分かれる獣道に入ってすぐの場所にちょうど開けた場所があり、曲げてしならせた二本の竹をザイルとテントのピックで固定しゴールネットの両端を竹の先に結いつけた。固定したテントピックと竹を結んでいるザイルは丈夫なものだが、急には切れないため罠としてはそのまま使えない。そこでカラビナとボルトとナットですぐに外せるように工夫をしている。
「ただし、難しい問題がひとつだけある」
アキラはユウトの部屋で真面目くさった顔をしながらそう言った。
「囮役を誰がやるか、だ」
アキラの練った計画は、どのようにしてイノシシをそこまで連れてくるかが問題になっていた。決してそこが抜けていたわけではない。イノシシは、雑食であるため餌で罠にかかってくれるとは思えなかったのだ。だとすれば襲われたふりをしながら罠の場所まで誘導する囮役が必要となる。
「あたしが……」
「いや、オレがやる」
リカコがそう言おうとしたのを遮ってアキラがきっぱりと宣言した。
「だけど、この計画を練ったのはアキラじゃないか」
抗議の声を上げたが、他に適役がいないのはユウトもよく分かっていた。
「この中で一番体力があって、一番脚が速いのは誰だ?」
そう言われると、アキラしかこの役をこなせるのはいない。ユウトは自分が論外だということはよく分かっていたし、リカコも空手で鍛え上げた体力と筋力はあるものの、生まれながらにして体格に恵まれた上に、山野を駆けまわって奔放に鍛えてきたアキラには敵わない。結局リカコも渋々だったがそれに従う形になった。
アキラはイノシシが追ってこない事も考えて、ガス式のエアガンを持ち、イノシシを発見次第、エアガンで怒りを買うという形で罠まで引きつける。リカコは強力な水鉄砲を持ち、中にハバネロまるまる一瓶を水で薄めた危険な銃で罠に突っ込んできたイノシシの顔面を狙って、アキラの援護とする。そして、ユウトは竹と地面を繋ぐ罠のジョイント部分を外す役となった。
うまく行けば、イノシシはサッカーゴールのネットで吊り上げられて見事捕獲となり、リベンジは果たされるといった寸法だ。
ユウトは、遊歩道から少し離れた獣道の付近の繁みに身を隠し、落ち葉や下生えの草で巧妙に隠されたゴールネットを見つめながら、アキラの計画がうまく行かなかった時の事を考えている。隣にはハバネロウォーターガンを構え、ユウトと同じように息を潜めているリカコが居る。
アキラが罠を通過する前に、イノシシに追いつかれたらどうするのだろう?ほぼ同時に罠に脚を踏み入れたらどうするのだろう?罠が作動しなかったらどうするのだろう?アキラはイノシシに勝てるのだろうか?いやそのためにリカコのハバネロウォーターガンがある。だが、リカコが狙いを外した場合どうするのだろう?かといって、お祭りの縁日の射的ですらまともに当てることができないユウトがリカコに代わってハバネロウォーターガンで狙えるはずもない。それは三人共よくわかっていることだ。思いは堂々巡りする。
ユウトはふとリカコを見た。遊歩道から獣道へ入る入り口の辺りをじっと見ている。昨日のイノシシとの戦いの影響もあるだろうか。打って変わってアウトドア風になったリカコの格好は丈夫なモスグリーンのアーミーシャツに、脛の半ばまであるゴツい黒のジャングルブーツだ。ただ、ユウトがよく分からないと思うのはそんな格好なのに黒いニーハイと黒のミニ・スカートだという事だ。この辺は女の子だといったところなのだろうか。そういうこだわりがユウトにはよく分からない。
リカコはユウトが見ているのも気づかない。風が下生えの繁みを揺らす。それと同時にリカコの髪も揺れる。手を伸ばせば届く距離。昨日の事を思い出す。夢中でリカコにしがみついた。その感触。幼馴染。体温を感じる事ができる程の近い距離。自分の心臓の音が、いやにはっきりと聞こえてくる。ショートカットの髪型から覗く白いうなじ。いや、違う。そんな事じゃない。そんな事を考えている場合じゃないぞ。アキラはまだか?まだ来ないのか。今はイノシシに、罠に集中しなきゃ。
リカコが息を呑み、身を固くした。ユウトは自分の考えがリカコにバレたのではないかと心配したが、リカコが獣道の入り口をじっと見ながらユウトの裾を引っ張ったためそれは間違いだとすぐに分かった。リカコの視線の先を追いかけてみると動くものがある。イノシシだった。しかも、やや小さい子どもたちと一緒に獣道へと入って来ていた。
アキラはどうしたのだろう?
ユウトはアキラが既にイノシシに倒されたのではないのかと心配になった。
「アキラは……」
ユウトが不安をそのまま口にすると、リカコはイノシシを見たまま答えた。
「たぶん、すれ違っちゃったんじゃないかな」
確かに、イノシシの様子を見ると全く興奮している様子はない。アキラと鉢合わせたとすれば、アキラはイノシシを自分に引きつけるためにエアガンで撃っているだろうし、エアガンで撃たれているのであれば、イノシシの方もあれほど穏やかに子供連れで歩いてなどいないだろう。
「どうする?」
ユウトはリカコの言いたいことがすぐに分かった。あんな穏やかな雰囲気で歩いているイノシシの家族を罠にかけることができるのか?
「やめよう」
「うん」
いつも優柔不断で迷ってばかりいる自分の性格を良く知っているユウトは、自分の明確な意思でリカコにはっきりとそう言った自分に驚いていた。そしてその判断が決して間違ったものではないという確信もあった。
イノシシの親子を見ているリカコの横顔。ユウトはそれを見ながら去年の冬に見かけたリカコの表情を思い出していた。
冷たい雨が降る中、車に轢かれた親猫に向かって必死に鳴いている子猫達。
事故で母を亡くしたリカコはその光景をどんな思いで見つめていたのだろう。きつく結ばれた口元に、全てを拒否するかのような強い思いをたたえて立つその姿はユウトにとってあまりにも近寄りがたく、何もできないままその場を離れることしかできなかった。
けれども、今は違う。ユウトはリカコの隣にが居る。だからユウトの思いを聞いたのだ。あの親子を自分達の都合で離れ離れにさせる事はできない。その判断は間違っていない。リカコがどんな思いでイノシシ達を見ているかは分からないけれども、決して間違っていない。アキラの計画はイノシシを殺してしまうものではないのだけれども。
イノシシの家族を見たまま、リカコの手がゆっくりとユウトに向けて差し出された。ユウトはそれはリカコが助けを求めている手のような気がした。
助けたい。強くそう思った。
ユウトは激しくなる自分の心臓の音を聞きながら、その手のひらをしっかりと握りしめた。
龍の泉-4
「我々の名誉を挽回するには、リベンジしかないのであるっ!!」
月越山からボロボロになって帰って来た明くる朝、アキラはユウトの部屋で立ち上がってそう叫んだ。
龍ヶ渕を目指した月越山アタックに挫折した三人はイノシシの強襲に遭遇、撤退を余儀なくされた。思いにもよらないユウトの横槍によって、イノシシと戦わずして退かざるを得なかったリカコの口惜しさは、アキラやユウトの比ではなく、リカコは夕飯が大好きだったシチューにも関わらず手を付けず、龍之介と部屋に閉じこもったっきり一歩も外に出なかった程だ。
「明日なんとかする。だから今日はもう休め」
なんだか妙に大人じみたセリフで、どこかの漫画かアニメから借りてきたものなのかな?とも思ったし、自分は役に立たないんだと言われている様でなんだか無性に悔しかったが、帰り際にきっぱりりとそう言い切ったアキラの言葉を信じてリカコは素直に眠った。龍之介が入った水槽の前で。
隣の家のアキラの部屋で夜遅くまで電気が灯っていたので、アキラは何かをやっているようだった。こういう事柄に関してアキラは天才的とも思えるアイディアと実行力を発揮する。そういうところは素直に凄いと思うのだが、自分には空手なんていうガサツな部分でしかアキラに勝てないのだと思うとなんだか凹む。アキラの指示はいつも大人顔負けでとても的確だ。アキラが何も言ってこないということは、おそらくリカコがやるべき事はないのだと思って、出来るだけ気にしない事にして休むようにした。今考えると、そのわざとらしい言葉もアキラの優しさだったのかもしれないと思う。
アキラの真意はどうであれ、リカコは空手の試合に負けた時と同じような悔しさに襲われていたものの、思った以上に疲れていたらしく、朝まで目覚める事もなくぐっすりと眠れていた。コンディションは上々と言ってもいい。幸い、丘から転げ落ちた時にも、ユウトを下に転がったせいかリカコにはどこにも怪我はなかった。その代わりユウトは青あざだらけになっていたが、それは決してリカコが殴ったからというだけではない。
そして朝。アキラから招集の声がかかった。朝8時。なぜかユウトの部屋。リカコがユウトの部屋に入ると既にアキラはそこに居た。黄緑色でなにやら重そうなザックをユウトの部屋に運び込んでいる。そのザックの横でなぜかユウトが物凄く不機嫌そうな顔でそっぽを向いている。リカコはその様子だけで、昨夜アキラとユウトは二人で何かやらかしたのだと直感的に悟った。
リカコがユウトの部屋に入ってくるなり、アキラは立ち上がって高らかに宣言をしたというわけだった。
「いよっしゃぁ!リベンジだ!!」
リカコにしてもこういうアキラの性格は慣れているので、勢いに乗っかるのはさほど難しくはない。それよりも問題なのはアキラの横にある大げさなザックだ。アキラのことだ。昨夜のうちに用意した対イノシシ用の秘密兵器に違いない。
「このザックはなんなの?」
アキラはリカコの反応にドヤ顔になってニヤリと笑った。横にいるユウトは先ほどよりも増してぶすくれた顔になっている。
「ふっふっふっ」
アキラはノリノリでリカコの前で人差し指なんかを振っている。明らかに何らかのアニメか漫画の影響を受けているとしか思えない。
「聞いて驚け、これが対イノシシ用の秘密兵器だッ!」
「ふーん」
大げさにセリフを吐いたアキラは、リカコの軽い返事にコケそうになる。
「なんだよ!秘密兵器だぞ!秘密兵器!」
人の心には敏感なくせに、こういうところがほんっと馬鹿なんだよなー、と思いながらリカコはザックの方ににじり寄る。
「問題なのは中身」
リカコがザックの中身を引っ張りだすとそれは黒いネットだった。
「なにこれ?」
「サッカーゴールのネット」
アキラの代わりに先ほどからずっとぶすくれて黙っていたユウトが答えた。
「サッカーのぉ?!」
リカコは自分の声を出した途端こらえきれなくなって吹き出した。大きな荷物と、アキラのニヤニヤ笑いと、ユウトの膨れっ面。それらが全部リカコの中で、ジグソーパズルのピースのように組み上がった。笑いが止まらない。そんなリカコの様子を見ているアキラは、やっぱりニヤニヤ笑いながらドヤ顔をしているし、ユウトはやっぱり仏頂面をしている。
「何がそんなにおかしいんだよ」
ユウトがボソリとつぶやくように言う。
「ゴールネットって、バカじゃないの」
リカコはなんとかそれだけを言葉にする。それでも笑いは止まらない。
「バカって言うな」
唇を尖らせてそう答えるユウトは明らかにバカであることを自覚している。
近所にサッカーゴールがあるところは、限られている。小学校、中学校、そしてコミュニティセンターの三つしかない。
コミュニティセンターにあるゴールネットは普段は外されており、必要な時にしかゴールに取り付けられない。必要ない時は取り外されて、建物の中にある倉庫に眠っている。中学校のゴールネットは古くてボロボロ。だとすると、正解は残りのひとつしかない。小学校のゴールネットだ。
「あー、おかしい。学校には許可もらってないくせに」
ようやく収まって来た笑いをおさえながらリカコが言う。涙を浮かべて、腹をかかえている。アキラの無茶はいつもの事の筈なのに、よっぽど笑いのツボにハマったらしい。
「許可なんか取るわけねぇし」
アキラはニヤニヤ笑いを張り付かせたまま床に座り込んだ。
「なんでアキラの犯罪に、ボクが付き合わされなきゃいけないんだ」
ユウトのふてくされた態度の原因はそこだ。つまり、二人で深夜の小学校に忍び込み、サッカーゴールネットをひっぺがして持って来てしまったのだ。
「そう言うなって。ちゃんと返すし」
「そういう問題じゃないっ!」
キレそうになるユウトにリカコは笑顔を向ける。ユウトの左肩に手を置く。
「なんとかなるって」
「なんとかならなかったらどうするんだよ」
どうやら笑顔では誤魔化されてくれないらしい。
「なんとかするんだよ」
アキラが右肩に手を置いてにこやかに言った。
ユウトは深い溜め息をつくしかなかった。
龍の泉-3
目の前に青空が広がっている。視線を下に移すと、そこにはいつもは自分たちが生活している街が見下ろせる。三人が住んでいる幟町(のぼりまち)だ。その幟町の真ん中を横切るようにして龍玉川が流れている。三人の足元、山の麓から緩やかなカーブを描いて龍玉川に流れているのが髭川だ。それらの川面が、空と陽光に照らされて銀色に輝いているのが見える。まるで銀の龍が幟町を横切って行こうとするかのように。
新緑の中をやや涼しい風が横切って行く。風は緑の葉を揺らし、見晴らしのよい野原を駆けて、アキラの頬をかすめて通り過ぎる。風が気持ちいい。カラリと晴れた5月の空気は、灼熱の日差しとは程遠く、空気もどことなく澄んでいるように感じられる。
アキラはペットボトルの蓋を開けて、勢い良く喉に流し込んだ。
そのアキラの右横の地面にはユウトがへたり込んでいる。リカコは左手にある少し高くなった見晴らしのいい場所で伸びをしている。
「ユウト、完全に運動不足だな」
笑いながら冗談っぽく言ったものの、その言葉がユウトをムキにさせる事は知っている。
「悪かったな」
ふてくされるユウトにアキラは顎でリカコをさす。
「わかってるよ」
ユウトは地面に転がっているトレッキングステッキとペットボトルを勢い良くつかんで立ち上がった。一応ユウトにも男の意地というものはあるのだ。
ま、あいつは別格だけどな。
アキラは心の中でそう呟いて、ペットボトルをポケットにねじ込む。
「なにしろ鍛え方が違うからなぁ」
リカコの方へとしっかりした足取りで歩いて行くユウトの背中を見ながらアキラは苦笑する。ユウトに気合いを入れさせるためのこのやり方は、相手がリカコだからこそ使えるやり方なんだとアキラは知っている。ユウト本人ですらその事に気づいていないだろう。それもアキラの性格の為せる業だ。
けれどもアキラはそんな人の動かし方の危うさを嫌というほど知っている。早いうちから父親の事務所に遊びで出入りするようになったアキラは自分の父親が部下の感情を見ながら、上手にやる気を引き出している事に気付いた。それを自分に当てはめてみると、アキラ自身も父親に感情を見ながら話かけられていた。初めは嫌悪感しかなかった。だが、しばらくすると父親のやり方に吐き気がするほどの憤りを覚えた。自分は父の操り人形ではないと思った。しかし、そんな苦しい日々は長くは続かなかった。自分の父親が何の為にそんな事をやっているのか、それをアキラに直接教えてくれたからだった。
今のアキラなら分かる。時と場所を間違えない言葉は、人の励みになる。そして時と場所と言葉を間違えず、人の最大限の力を発揮させる事ができるのが、人の上に立つことができる大人なんだと。
しっかりと靴紐を結び直すと、アキラはユウトの背を追いかけるようにして足を踏み出した。視線はリカコが立っている丘の方を向いている。
ふと、リカコの後ろの茂みが不自然にざわざわと揺れた。
何だ?
アキラが目を凝らすと茂みの奥に黒い影がちらりと見動く。
クマ?!
先日新聞の地方欄の片隅に載っていた「ツキノワグマの足跡見つかる」というタイトルを冠した記事がアキラの脳裏をかすめた。
「リカコ!後ろ!!」
ほぼ同時に気付いたらしいユウトが大声で叫ぶ。リカコが後ろを振り返って茂みを見る。リカコもその茂みに何かが潜んでいることに気づいたようだ。
次の瞬間、アキラは信じられない光景を目にすることになった。リカコがじっと茂みに視線を向けたまま、背負ったリュックサックをゆっくりと下ろしたのだ。
リカコはリュックサックの頭部をポンポンと二度叩く。まるで、その中に居る龍之介を安心させるかのように。そして素早く脚を開き、腰を落とした。
「は?」
アキラは呆然と脚を止めてリカコの姿をまじまじと見つめた。
リカコは顔の前で両腕を交差して、息を吐きながら拳を腰の両脇へと引き絞っていく。空手の息吹だ。
「ばっかじゃねぇの?!」
我に返ったアキラが慌ててもう一度、リカコに向かって走りだす。その声に我に返ったユウトも同じく走りだす。
「我が迎撃拳に、迎え撃てぬ攻撃なしッ!!!」
リカコの雄叫びに反応するかのように茂みから巨大な黒い影が飛び出した。
「わああああああああああああああああああああああっ!!!」
黒い影が踊るようにして、リカコの方へと方向を変えた。リカコの眼前に黒い影が迫る。リカコがタイミングを合わせようと、右の拳をすっと引いた瞬間、まさにそのタイミングでユウトがリカコに胴タックルをかけた。
「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!!!」
ユウトから胴タックルを食らったリカコはもんどりうって倒れ、なだらかな丘の上からアキラの視界の向こう側へと二人揃って転がり落ちて行った。
その直後、黒い影が猛烈なスピードで走り抜けた。その姿は熊よりもずっと低く小さい。
イノシシ?
熊よりも小さいとはいえ、襲われてはひとたまりもない。いくら空手が強かろうが、迎撃拳に迎え撃てぬ攻撃がなかろうがそれは人相手であればこそ。動物相手に空手で打ち勝ったなんていうのは空手の達人クラスの話である。ましてや中学生で女の子であるリカコが勝てるわけがない。
イノシシは転がり落ちた二人を無視するかのように、恐ろしいスピードでアキラの視界の隅へと消え去っていった。
「ユウト!!ナイス!!!」
一命を取り留めた二人の姿を確かめようとアキラが丘の上に走り寄る。
「ユウト!おい!ユウト!」
リカコの叫びが聞こえる。さては頭でも打って気でも失ったのか。
慌てて丘の上に辿り着いたアキラが目にしたのは、気の抜けた光景だった。
ユウトはまだリカコの腰に抱きついていた。そのユウトの頭を、リカコは叫びながら拳の腹でポカポカと殴っていた。
「アホ!ユウトのバカ!スケベ!変態!!ロリコン!!!」
その様子があまりにもおかしかったアキラは、思わず吹き出した。
「アキラ!笑ってんじゃない!!!こいつひっぺがしてよ!!!」
ポカポカと頭を殴られてもユウトはまだリカコの腰にしがみついていた。
龍の泉-2
きっかけは、リカコだった。
四月も半ばを過ぎて部活の勧誘活動もようやく一段落した頃に、アキラとリカコは共同で宿題をやっつけるためにユウトの家に遊びに行く習慣を復活させた。
小学校から続いていた習慣で、勉強が出来るユウトのノートを二人が自分達のノートに書き写す事が殆どだったが、ユウトはユウトでそれを気にするでもなく、幼馴染の二人が自分のノートを書き写す間、アキラが持って来た漫画を読んでいる事が多かった。
リカコはまるっきりの体育会系で、空手の練習もあったため、授業の殆どが睡眠時間としてあてがわれていた。アキラの方は勉強が出来る方だったが、授業中の殆どを漫画や読書に費やし、勉強と努力という二つの言葉を、全く切り離したかのような姿勢で授業に臨んでいた。
以前、アキラにユウトが「ボクのノートを取らなくてもアキラはちゃんといい点取れるじゃないか」と言ったことがある。アキラは、その端正な顔でニヤリと笑って、ユウトの肩を叩きながらこう言った。「ユウトのノートがオレにいい点数を取らせてくれるんだぜ」と。ユウトもそんなアキラの言葉を鵜呑みにするほどバカではなかったけれど、自分が役に立っているという実感がそれ以上の抗議を口に出させなかった。
そんな勉強の日に、滅多に遅刻しないリカコが遅れて来た事があった。
ユウトの部屋に飛び込むと、息を整えながらリカコはこう言った。
「龍之介を大人にしなくちゃ!」
一瞬、意味が分からずに、リカコの方を向いたままポカンとしてしまった二人だったが、それもいつもの事だと立ち直り、詳しい話を聞き出した。
話はリカコの家で飼っている、ウーパールーパーの龍之介の事だった。
龍之介がリカコの家にやってきて、もう5年ほど経つ。しかし、リカコは龍之介がこの歳になっても、成体になる気配すらない事を気にかけていた。ウーパールーパーは両生類だが、ネオテニーなので変態しないというのは、うっかり者のリカコの知るところではなかったのは言うまでもない。
そのリカコが全く変態する気配すらない龍之介を心配し、どうしたら成体になれるのだろうと悩んでいる、と二人に話をしたのは数日前の事だった。アキラとユウトは、漫画を読みながらそんな話を聞いていたため、リカコがどこまで本気なのかを測りそこねたような形になってしまっていた。そんな適当な意識しか持っていなかったところに、リカコのいきなり飛び込んでくるなり「大人にしなくちゃ!」発言だった。二人が驚いたのも無理は無い。
「大人にするって、どうやって?」
「大人にする方法、見つかったのか?」
ユウトとアキラがほぼ同じタイミングでリカコに質問をぶつける。
「野生に返すの」
制服のスカートのまま、ユウトの部屋の床に胡座をかき、烏龍茶を片手にリカコは二人にそう答えた。
「どこの野生だよ!」
今度は二人の声が綺麗にハモる。
リカコは烏龍茶を口に運びながら「待て」とばかりに左手で二人を抑える。勢い良く喉に流し込まれる烏龍茶の音が、間抜けな沈黙となってユウトの部屋を占拠した。
「ぶはぁっ」
派手に息をついたリカコは、まるでおっさんのようだ。少女の姿形はしているが、ユウトとアキラからしてみれば、中身がまるっきりおっさんなのでおっさんと言っても何の問題もない。本人の目の前で口に出すと、さすがに怒りの正拳突きが飛んでくるが、そんなところもおっさんだと専らの定評だ。
一息ついたらしいリカコが、説明を求めている二人に向き直る。スカートのポケットをがさごそと探し、結果その中から出てきたのは新聞の切り抜きだった。
地方版のページを雑に切り取ったその紙切れの中には、月越山の七合目の辺りにある龍ヶ渕という水場の記事が乗っていた。
月越山にはその麓を流れる龍玉川という川がある。その川に流れ込む支流、髭川が月越山から出ている。それほど大きな川ではないが、水量は豊富で澄んだ水が絶えた事はない。龍ヶ渕はそんな川の途中にあった。
「龍ヶ渕にオオサンショウウオがいるんだって」
リカコは烏龍茶を流し込み、一息つくとそう切り出した。
「は?」
「オオサンショウウオ?」
ユウトとアキラが素っ頓狂な声を同時にあげた。
二人ともオオサンショウウオが天然記念物であり月越山なんてところには居ないことを知っている。しかし、それを言ったリカコは自信満々だ。
「そう、オオサンショウウオ」
うなづきながら自信満々に間違えている。
「それ、サンショウウオじゃないの?」
ユウトは新聞の切り抜きを拾い上げて目を通す。
「ほら」
サンショウウオと書いてあるところを指でさしながらリカコに見せる。
「サンショウウオがいるなら、オオサンショウウオもいるでしょ」
リカコは一瞬ひるんだものの、あくまでも退く気はない様子だ。
「いないだろ」
アキラは冷たく突き放す。
「オオサンショウウオはサンショウウオが大きくなったものじゃないから」
ユウトが更に追い打ちをかけると、リカコはぶんむくれた。
「いたらどうすんだよー!」
意地っ張りなリカコは、こうなったら退かない。そういう性格なのだから仕方がない。場合によってはサンショウウオをオオサンショウウオだと言い張るだけに留まらず、オオサンショウウオをでっち上げないとも限らない。そういう無茶な一面がある。そんなリカコの性格をよく知っているユウトは、この会話の行き先にとてつもなく嫌な予感を覚えた。
「いねぇってば」
アキラは苦笑しながらまだリカコをからかっている。
「おい……」
「よぉし!分かった!行けば分かるじゃん!!」
ユウトがアキラを止めようとした瞬間、リカコがすっくと立ち上がった。
止めるのが少々遅かった事に気がついた。しかしそれは既に後の祭りだ。
「よっし!行こう!」
気が付くとアキラも立ち上がって腰に手を当てていた。この辺りは単なる「面白がり」の性格がゆえのノリだ。
「明日土曜日だからな!」
「ユウト、11時半に学校に集合な!」
二人はユウトを置き去りにして盛り上がっている。
「おい……二人とも……」
「龍が棲むとも言われてっからなぁー」
「なんつったって名前が龍ヶ渕だもんなぁー」
ユウトのわずかな抵抗は、二人の声にかき消される。
「行きたきゃ二人で行きゃいいじゃないか……」
ため息と一緒に吐き出されたユウトの呟きは、二人の耳にはまったく届いてないようだった。
龍の泉-1
強い日差しが照りつけている。下生えの草花は青々として茂って、常葉樹から溢れ落ちた木漏れ日が斑に色を飛ばしている。
5月の連休明け。もう夏に入れてもいいのではないかと思えるほどの真っ青な空の下、月越山の遊歩道を三人が登っていく。
先頭を歩くのはアキラ。そのすぐ後を歩いているのがリカコ。そしてやや離れてユウトが続く。体力的に男女の差があまり変わりのない中学生だが、アキラに続くリカコの足取りはしっかりしている。
それほど大きな荷物を背負っていないアキラとユウトに対して、リカコの背にあるのは青くて大容量のリュックサックだ。できるだけ揺らさないようにして、足を運んでいるその様子から体力にまだ余裕があることが分かる。
しかしそのリカコの様子とは裏腹に、最後尾を行くユウトの足取りの方が覚束ない。肩で息をして顎があがっているユウトはいかにも体の線が細く、時々度の強いメガネを外しては肩にかけたタオルで流れる汗を拭っている。
リカコがユウトの遅れに気が付いてアキラに声を掛ける。
「アキラ。ユウト遅れてるよ」
アキラはその声に立ち止まる。
ユウトもリカコの声に反応し、少々むっとした顔をして立ち止まった。
「ボクのことは気にしなくていいよ」
「そんなわけにはいかないだろ」
アキラが自分の袖で汗を拭いながら木々に隠れた月越山の稜線を見上げる。現在地は山の三合目辺りか。頂まではまだ程遠いが、目的地は山頂ではない。行程の半分は既に過ぎている。そろそろ休憩を入れてもいい頃か、とアキラはひとりつぶやく。
そんなアキラの様子を見て察したのか、ユウトは不満気にため息を漏らす。まだまだ歩けると言わんばかりに。しかし、その膝はわずかに震えていて、ユウトはそれを前の二人に悟られないように足を踏ん張った。
ユウトは悔しくなって、自分の情けない足元を見る。狐色のトレッキングシューズと厚めのソックスから伸びた、いかにも筋力のなさそうな、白くて細い脚。焦げ茶色した半ズボンのワークパンツに、襟付きの青緑ボーダーのポロシャツ。手には焦げ茶色のトレッキングステッキまで持っている。その装備はトレッキングのスタンダードだが、これ等が山登りに適している事は説明するまでもない。
しかし、アキラは黒いTシャツの上に白いワイシャツを羽織り、ジーンズにサッカーシューズという軽装だし、リカコにいたってはグレーで七分袖のパーカーにブルーデニムのショーパン、黒のニーソにコンバーススタイルのハイカットバッシュというカジュアルにも程がある格好だ。
ユウトなんかはその格好を見て、脚を怪我でもしたらどうするのだろう?等と思ってしまう。
「こんな格好をしているボクがまるで馬鹿みたいじゃないか」
ユウトは自分のトレッキングシューズに向かってつぶやく。
これだけ意識に差があるというのに、ユウトが遅れがちなのは、偏に体力の違いとしか言い様がないのだけれども、ユウトはそれを決して認めたくはない。実際、ユウトにとってはこれだけの装備なのに、なぜ自分が前を行く二人に遅れをとっているのか?という思いが強い。意識の問題ではないのだが。
とにかく、ユウトはそんな思いを地面にぶつけながら一歩一歩確実に脚を踏み出そうとする。しかし、非力な脚はそんな思いをよそにユウトのいう事を聞いてくれそうにない。
「とりあえずこの先に平らなところあるからさ」
アキラが急勾配に登っていく山道の先を指さす。
「そこで一旦休憩しようぜ」
「龍之介にもご飯食べさせなきゃいけないしね」
リカコが背負ったリュックサックを気にかけながらそう言った。