龍の泉-6
見たこともない光景が目の前に広がっていた。
5月の強い陽射しは青々と茂った常葉樹にその殆どを遮られ、その間からこぼれ落ちた光は、フィルターを透過したかのように緑と青を強めている。彩られた光はこんこんと湧き上がる泉の水面に落ち、仄かに青いきらめきを放ちながら反射して澄んだ空気へと四散していく。下生えの草達は、まるで泉の周りだけ遠慮をするかのように控えめにしか生えていない。遊歩道から外れて谷あいからしか入れない唯一の入り口には木々が鬱蒼と茂り、まるでそこの空間だけを人の目から隠しているようにも見える。入って右手の傾斜の方は、少しばかり平らな岸があり回り込めるようになっている。対岸は崖。途中から妙な角度で伸びている樹木が、その緑の葉を垂らして水面に映えている。左手側は岩場になっていて、ここから湧いた水は巨大な岩と岩の隙間へと消えて行っているようだ。
自分のイノシシ捕獲作戦が全くの無駄になって少々むくれていたアキラは、この光景を目の当たりにするなり自分の不機嫌さを忘れた。
「すげぇ……」
呆然としてつぶやく。
アキラの後をついてきていたリカコとユウトは、泉に見とれていたアキラをいつの間にか追い越して、泉のほとりにたどり着いていた。アキラも我に返って二人の後を追う。
「ここが龍ヶ渕?」
いや、違う。アキラには確信があった。確かに龍ヶ渕へ行くルートを辿りスマホの位置情報サービスも間違いなくここを龍ヶ渕だと指してはいるが、ここは龍ヶ渕ではない。
「ここじゃない」
慎重でゆっくりとした、しかし確信に満ちたアキラの声に、泉しか見えていなかった二人が振り返る。
確かにここは龍ヶ渕ではない。以前に父親と来た龍ヶ渕はこんな感じではなかった事をアキラははっきりと覚えている。もっと大きかったし、もっと暗く鬱蒼としていた。何よりも龍ヶ渕は川が流れこむ渕なのであって、水が湧き出る泉ではないのだ。
「じゃぁ、ここは?」
リカコが泉へと視線を戻す。
「わからない」
アキラは正直に答えた。
「なんだそれ……どういうこと?」
ユウトがポケットから自分のスマホを取り出してロックを解除する。操作してじっと見た後、アキラに目を向ける。
「龍ヶ渕だろ、ここ」
自分達の居る場所を確認したようだ。アキラに向かって歩きだそうとしたその瞬間、左手の岩場から声がした。
「何をしているんだい?」
ゆったりとした優しい声だった。そこに人が居るとは思わなかった三人の視線が一斉に岩場の上へと集まる。岩場の上には見事なヒゲをした、白髪の老人が釣り糸を垂らしていた。白のちりめんに紺のトンボが描かれた作務衣を着たその老人はゆっくりと釣り竿をあげると岩場から三人の姿を見下ろしている。
「ここは龍ヶ渕ですか?」
アキラが前に進み出て、自分達が感じている疑問を口にした。
老人は驚いたようにアキラ達を見て、そして穏やかに微笑む。
「ここは龍ヶ渕ではないな」
「おい、アキラ」
ユウトはアキラに説明を求めようとする。場所は間違いなくそうだ。だが、唯一龍ヶ渕に来たことがあるアキラには、ここは見覚えのない不思議な場所だとしか映っていない。
「じゃあ、ここはどこですか?」
「名前はないんだよ」
老人はニコニコと笑いながら立ち上がる。脇にどけた釣り竿と竹で編んだビクを手に持ち、岩の裂け目に作られたらしい階段を伝って1メートルほどの高さもある巨岩から危なげない歩調で降りてくる。
リカコはリュックサックを足元に降ろして、龍之介が入った小さな水槽を取り出した。
「それはなんだい?」
老人はリカコが手に持つ水槽に興味を持ったようだった。
「龍之介っていいます。ウーパールーパーの」
「ほうほう」
老人はリカコが持つ水槽をのぞき込むと、しばらくじっと見ていた。誰も何も喋らなかった。
「それで、この龍之介がどうしたんだい?」
龍之介から目を離した老人はリカコの顔をのぞき込んでニッコリと笑った。
リカコはこれまでの話をし始めた。龍之介を龍ヶ渕へと連れて来たかった理由、イノシシの妨害、真夜中の学校侵入、イノシシの捕獲計画。老人は、うなずきながら、時折絶妙なタイミングで相槌をうちながら聞いていた。
「ここには、龍之介は住めないのかな?」
リカコは老人への質問でその話を締めくくった。
「さぁて、どうかな」
いつの間にか三人は老人を囲んで岩場の上に座っている。老人が、足腰が弱ってキツいのでな、と言った言葉だけが妙にアキラの頭の中に残っていた。
「住めないのかな……」
リカコのかすれた力のない声に、ユウトが泉を覗きこんだ。
「水は綺麗だし魚もいるし龍之介の餌になりそうな苔や微生物もいっぱいいると思うんだけど……」
アキラもユウトの言葉に釣られて泉を覗き込む。黒い小さな影が、素早く泳いでいるのが泉の水面に映っている。確かに両生類が住み着くにはとてもあっている場所だと思えるし、とても素敵な場所だとも思えた。アキラは、本来の目的地がこの泉ではなく、龍ヶ渕だという余計なツッコミは言わないようにしようと思った。
「住めるとは思うんだがな」
泉の方を見て老人は穏やかに微笑む。それは確かに穏やかなものだったが、どこか哀しげで寂しそうな表情だとアキラには感じられた。
「龍之介に聞いてみるのもいいと思うぞ」
老人は三人に視線を戻し、確認するかのように言った。
「龍之介に?」
「そうだ。誰と一緒にいたいか?どこに住みたいか?は龍之介にも希望があるんじゃないのかな」
そう言うと老人は釣り竿と魚篭を持って立ち上がった。三人のまるで問いかけるかのような視線に微笑みながら、座ったままのリカコの頭に手を置く。
「龍之介を大人にさせたいのは分かる。だけど龍之介はどうなのかな?」
老人の穏やかな声がアキラの胸にも響いた。
そうだ。かっこいい大人になりたいのは龍之介じゃなかったんだ。アキラは唐突に気付いた。それはリカコの願望であり、自分達の願望だったんだと。リカコもアキラも、はやくかっこいい大人になりたいという自分達の願望を龍之介に背負わせようとしていただけなのかもしれない。そう思った。その一方でユウトがこの話にあまり乗り気になれない理由も分かった気がした。ユウトは環境の変化に敏感だ。そこまで無理をして背伸びをしてまで大人にならなくてもいいと感じているのかもしれない。
老人を見上げていたリカコがうつむいた。リカコもそれに気付いたようだ。
「そんなに慌てる必要はないんじゃないかな」
ゆっくりと言い聞かせるような言葉が胸にしみる。
老人は泉から立ち去ろうとしていた。泉から遊歩道へ登る入り口に立って、ゆっくりと振り返った。
「君達ならきっと大丈夫だよ」
その笑顔は優しさに満ちている。
「よかったら後ろにある祠にお参りして行きなさい。何か答えが見つかるかもしれないから」
アキラは後ろを振り返る。確かに岩場の奥まった場所に小さな祠があった。
立ち上がって祠の前に行く。古く苔むした小さな祠。そこには読みにくい風化した文字で文字が彫られていた。指でなぞると「竜王吼菩薩」と彫られているのが分かる。
アキラが泉の入り口を振り返ると老人はもう居なかった。
「お参りする?」
ユウトがつぶやくようにリカコとアキラに聞いた。
「うん」
すっかりしおらしくなってしまったリカコがうなずきながら返事をする。
三人はひざまずき、古い祠に手を合わせた。