White Noiz

諸々。

奈落の王

 

「あら、元カノの写真か何かですかぁ?」

コアスーツに袖を通しながらリリスが写真を覗き込んだ。

オレは軽くリリスを睨みつけ、個人用情報端末—ワイズド・ターミナル、通称Wizdom——のウィンドウを閉じた。

「人のプライバシーを覗き込むのはいい趣味とは言えんぞ」

コアスーツの武装を目の前に展開した現実拡張ディスプレイで確認しながらリリスは微笑む。

ピッタリと身体にフィットしたコアスーツは、リリスのスタイルのいいボディラインが丸分かりで中々に艶めかしい。

だが、そのコアスーツの下にあるのは、有機繊維で作られた人工皮膚だ。

「アサルト・フォートレスのメンタル面もサポートできなくて、何がバックアッパーですか」

死地に赴こうとしている、降下前のアサルト・オブ・スタンドアロン・フォートレス—つまり、独立型要塞化突撃兵—の気分を和ませようとでもしているのだろうか。

バックアッパーのリリスの表情に一切の暗い陰はない。よくできた女性型ヒューマノイドだ。

「よく出来たバックアッパー様のお陰でこうやって生きながらえてんだって言われればそれまでだな」

苦笑しながらそう言うと、リリスは満面の笑みを浮かべて振り返った。

「それはお互い様ですよ」

一体どんなプログラミングを仕込めば、支援する相手の心まで慮った言動ができるヒューマノイドが作れるのだろうか。

ラックに掛けてあるヘルメットを手に取り、前髪を掻き上げて深く被る。

ヘルメットの内部クッションに無精髭が擦れ、不快な音を立てる。

そういえば、今日は髭を剃っていなかったんだな。

だが、その不快な感触も、ヘルメットの加圧固定型の内部クッションによって擦り潰されてしまった。

不快な物を麻痺させる感覚。

恐怖、不安、怒りを擦り潰せ。

戦場ではそれがセオリーだ。

 

西暦2015年、イスラム国はパリでテロの火を灯した。

当時、世界をテロの恐怖に叩き落としたアルカイダとの闘争が一段落したかに思われたが、新たなる紛争の火種はシリアのラッカにあった。

シリアの一部を領土としたイスラム国は、シリアだけでなくイラクにもその領土を伸ばしていったが、ここに来てクルド人の反抗、フランス空軍やシリア、ロシア空軍による空爆により戦線は膠着。

このイスラム国による空爆への報復行為だとされたパリの同時多発テロは、120名もの一般市民を死者の国へと送り出し、イスラム国への対テロ意識を全世界に植え付ける結果となった。

この事件の後、世界は再び「カウンター・ダーイシュ」と呼ばれる対テロリズムとの抗争の時代へと突入した。

アメリカはアルカイダとの抗争に終止符を打った事に味をしめ、特殊部隊によるイスラム国官邸への強襲を敢行。これに失敗した。

原因は特殊部隊の隊員にもイスラム国の思想が浸透しており、作戦実行時のヘリの中で自爆テロが起きたとも言われている。

なぜ特殊部隊という思想的にもセキュリティが固められた部隊に、イスラム国の思想を持った者が紛れ込んでいたのかは未だ闇の中だ。

ともあれ、「特殊部隊」というチーム編成に不安を抱いたアメリカ軍は、極秘裏に開発していたナノマシンと薬物投与による人間の強化を本格的に導入しはじめる。

この「ナノマシンによる兵士の強化」は部隊編成ではなく、ひとりの兵士をそのまま要塞化するという構想の下、アメリカ軍を中心に国連の平和維持軍にも展開された。

しかし、個人を要塞化するにあたっては、その者の能力だけではどうしても処理できない高いハードルがあった。

戦局の把握と情報整理、そして作戦執行本部との連絡が途絶えた時のバックアップだけは、個人の資質だけでは如何ともしがたかったのだ。

そして、「人」ではなくヒューマノイドとのツーマンセル方式が確立した。これがようやく2030年頃のことだ。

この時期における世界情勢は、既に中東やアフリカ、西アジア諸国、中南米、極東だけでなく、ヨーロッパですらも民族主義が台頭し、テロ合戦を繰り広るという状況に陥っていた。

アメリカにおいてすら、中南米のテロ組織に対抗するだけで手一杯の状況に陥り、中国は最早テロ国家の温床と成り果てていた。

アメリカが世界における平和維持活動に貢献できなくなった西暦2038年。国連は各国から志願兵を募り、正式な軍を再編した。

その軍は対テロリズムを主眼に置いて編成されたため、軍務だけではなく諜報的な位置づけも求められ、ユナイテッド・ネイションズ・ピースキーピング・フォースはユナイテッド・ネイションズ・インテリジェント・カウンターテロ・シアター(UNICT)と改称された。

国連カウンターテロ総軍におけるアサルト・オブ・スタンドアロン・フォートレス(アサルト・フォートレスもしくはAoSFと略される場合が多い)、オレ達はこうやって誕生した。

 

奈落への蓋が開く。

高高度戦略空輸挺進機——エアボーン——のカーゴベイが開き、黒々とした闇の大地が見える。

現地時間午前3時。作戦の時間だ。

リリスと共にナイト・ゴーンツ——ステルス処理を施された高起動型グライダー——へと乗り込む。

「気ぃつけてな」

司令部よりオペレーターの声がヘルメットの中から聞こえて来た。

「あぁ」

オレは短く答える。

アドレナリンが全身を駆け巡るのが分かる。

ジャンキー。死線を超える刺激を好物とし、その緊張感こそを至上の甘露とする者達。

アドレナリンジャンキー。またの名をウォー・ピッグス—戦争の豚ども—。

「降下する」

そんな自嘲じみた思いを鼻先の笑いで吹き飛ばし、オレはリリスと共に暗闇の中へと躍り出た。

奈落へ。

奈落の底へ。

 

「もう、手の施しようがありません」

無機質なくせにヤケに感情的な声を醸し出そうとする若い医者からそう宣告された。

アイカ。青く透き通った瞳を持った女兵士。

唯一、戦場をともに駆け抜け、心を許す事ができた女。

「どうされますか?」

アイカは死んだ。

いや、正確に言えば、死に向かう最中にあった。

呼吸器と脳にダメージはなかったが、下半身を自爆テロの犯人に持って行かれた。

注入されたナノマシンのお陰で辛うじて命をつなぎ留めてはいたが、身体の機能は既に停止し、壊死が始まっていた。

例え脳が生きていたとしても、それだけで人は生きているとは言えない。

真っ白な部屋。真っ白なベッド。透明なカプセルに覆われた女。

生きているとは言えないのなら、もう死んでいるのではないか。

いや、脳が生きているということは意識だけはあるのか。

けれども、今の彼女に意識があるかどうかなど、確認しようがない。

確認しようのない意識は、果たしてそこに存在していると言えるのだろうか。

果たしてそれは生きていると言えるのだろうか。

「お願いします」

オレは片方だけ残った彼女の手を握りしめて声を振り絞った。

「分かりました」

医者は優しい声を出して部屋を出て行った。

 

行軍は呆気なく終わった。

ナイト・ゴーンツはそのままターゲットの場所へ降りるなどという無謀な行為はしない。

少なくとも10キロは離れた場所に降下し、有機性の強化プラスティックで出来た翼は、5分でナノマシンに食われ原型を留めない残骸と成り果てた。

ぱっと見には、以前からある戦車やジープの残骸と何ら変わることのないガラクタの出来上がりだ。

そんなナイト・ゴーンツを捨て去ってリリスとオレは真夜中の行軍を開始し、1時間後にはターゲットのベースキャンプへとたどり着いていた。

今回は日本でテロ行為を繰り返す、テロリストどもの巣を一掃するお仕事だ。

途中、敵対勢力の兵士の姿も見かけなかった。

何かイリーガルな事が起きているというのはじゅうぶんに感じ取っていたが、作戦を放棄して帰投するわけにもいかない。

それはバックアッパーのリリスも同じ認識だったようだ。

「マスター、引き返すのは無理だとしても、今回は慎重に行ったほうがよさそうですね」

普段は作戦行動についてあまり口出しせず、アサルト・オフィサーのオレの判断を待っていることの多いリリスが、降下地点から7キロの地点で囁くようにそう言ったのが印象的だった。

ターゲットであるベースキャンプもやけに静かだった。

オレはリリスと共に、ベースキャンプを臨む丘に陣取り、兵士の配置を見て取ろうとしていた。

だが、ベースキャンプだというのに、兵士の気配はなかった。

暗視スコープの向こう側、ベースキャンプの屋上に人影が過ぎった。

女?

屋上の人影は長い髪を闇の中で風に揺らしながら手を挙げた。

一直線の光が伸び、屋上の女の姿を浮かび上がらせる。

「アイカ?」

何かの見間違いだと思った。

しかし、そんな考えはリリスの低く押し殺した叫びにかき消される。

「オフィサー!精密誘導ビーコンです!」

精密誘導ビーコン。高精度巡航ミサイルによる爆撃のターゲットを指示する光。

アメリカ軍のポインターがベースキャンプに巡航ミサイルの雨を降らせるための光。

「第一陣、三時の方角より着弾します!」

闇夜を切り裂く悲鳴のような轟音が鳴り響いた次の瞬間、ベースキャンプが爆発した。

バイザーの防眩フィルターが作動し、視界が暗がりへと転げ落ちる。

その視界の片隅で女の影が屋上から飛び降りるのが見えた。

そして、目が合う。

間違いない。赤毛の碧眼。アイカだ。

リリスポインターに捕捉された。逃げるぞ」

「イエス、オフィサー」

爆風から身を守るために伏せた低い体勢のまま、オレとリリスはベースキャンプとは真逆に走り始めた。

光の柱がオレ達の行く手を遮る。

アイカにポイントされた。

横を走るリリスを突き飛ばし、その反動でオレも逆方向へと飛んだ。

その瞬間、大地が沸騰した。

 

リリス、生きてるか?」

「イエス、オフィサー」

バックアッパーが生きてるかどうかはバイザーに表示されるモニターで確認は取れる。

それでも声をかけてお互いの存在を確かめ合うことは無駄ではない。

生きているという実感こそが自分を見失わないための命綱なのだから。

「破損状況は?」

「あまり芳しいとは言えませんね」

ここで破損状況を的確に回答しないあたり、本当に一体どんなプログラミングロジックで動いているのだろうかと思う。

オレを不安にさせないための心遣いだとでもいうのだろうか。

「的確に頼むよ、リリス

「失礼しました。脚部破損70%。歩行は困難です」

コアスーツの背面に仕込まれたスラスターの推進剤はわずか50メートル。この戦場を離脱するためには全くと言っていいほど足りていない。

「オレもだ。手足は無事だが、土手っ腹に破片を一撃食らっちまった」

リリスがオレのコアスーツからダメージ状況を転送し、そのデータを元にスキャンをかける。

「オフィサー、内臓にダメージは……そこまで深刻でもなさそうですね」

「まだナノマシンでのリアルタイム治療が利くレベルではあるな」

「オフィサーの完治まで約3分」

「作戦完了予定時間は?」

「あと10分です」

伏せた草むらから丘の向こうを見通す。アイカはまだ現れてはいない。

だが、先ほどの一撃でオレ達が消し炭になったとも思ってはいないだろう。

ふと、かつて愛した女性ーアイカと、敵という、相反するイメージを何の違和感もなく受け入れてしまっている自分に気づく。

これは、戦場では致命的な判断の遅延に結びつく「葛藤」を抑制する薬物投与の影響によるものなのだろうか。

それとも……。

「熱源反応。パターンはタクティカルヒューマノイド

リリスの声に我に返る。

薬物で抑制していても、自分の考えに囚われそうになっている。

平常心ではない証拠だろう。

「フォートレスモードの展開は可能か?」

「可能です」

逡巡のない声が返ってくる。

敵拠点の制圧でもないこの状況においてフォートレスモードを展開するのはあまり賢い選択だとは言えない。

フォートレスモードは全武装を展開し、一定範囲内を完全制圧する事を主目的とする。確かに火力は確保できるが、長時間に渡る戦闘には不向きな上に、何よりも機動性を犠牲にしてしまうリスクが高い。

早い話が、アサルトフォートレスというのは、敵陣まっただ中に降下させた兵士を要塞の如く武装させ、援軍が来るまでその場を橋頭堡として確保させるという、ロクでもない戦術単位なのだ。

そのロクでもない戦術を採ろうとしているにもかかわらず、リリスの声は冷静に聞かれた事のみを答えている。決して考える事を放棄はしていない。純粋にオレの採る戦術を信頼している証拠だ。

相手はタクティカルヒューマノイド。単騎で直径5キロメートルの範囲を焼け野に変える人外のバケモノだ。まぁ、アサルトフォートレスも似たり寄ったりなシロモノではあるのだが。

しかし、相手はポインターと呼ばれる、巡航ミサイルやレーザーといった外部からの全面支援—というよりむしろ、そちらの方がメインなのだが—を受ける優位性がある。

任務が想定外の結果と終わった以上、本来ならば逃げの一手に尽きるが、逃げ足を封じられた以上戦うしか選択肢は残されていない。フォートレスモードを展開し、更には奥の手までも使ったとして、勝算は五分五分といったところだろう。

腹をくくるしかない。

「フォートレスモード展開」

「イエス、オフィサー」

リリスは音もなく全武装を展開しはじめた。

 

リリス、あと何秒保つ?」

「60秒です」

あと60秒で弾薬が尽きる。それまでにケリをつけられなければ投了だ。

周囲は見事なまでに灰塵へと帰した。大地には十数メートル規模のクレーターが幾重にも刻まれ、ターゲットだったベースキャンプもレーザーの照射で飴状の奇怪なオブジェに成り果てた。

それでもオレとリリスはまだ戦っていた。だがその抵抗も、もうあまり長くはない。

「20秒後にデコイを射出。そのままスラスターを使って離脱しろ」

一瞬の間。

「イエス、オフィサー」

その一瞬の間が意味するものを考える余裕はなかった。

次の瞬間、ビーコンによるポインターの光柱がそびえ立ち、それに導かれてもう何度目かも分からない高高度からのレーザーが十束ほど降り立った。

2分前に射出した光学チャフをものの見事に霧散させるも、大幅にその収束率を減衰したレーザーは、射出角と収束幅から算出された回避行動を取るコアスーツを掠めて地面に突き刺さった。

「離脱しろ」

「イエス、オフィサー」

レーザーによるサージでノイズ混じりになったリリスの声が遠くに聞こえた。

リリスのデコイが射出され、アイカに向かって突進する。

奥歯にはめ込んだカプセルを舌で押し出し、噛み潰す。

ナノマシン励起剤。体内に埋め込まれたナノマシンのポテンシャルを最大限に引き出すためのトリガー。

全身に激痛が走る。全てのナノマシンが覚醒していくのが分かる。

大地を蹴っ飛ばす。周りの景色が勢い良く吹っ飛んでいく。

フェイントは一回。

天空から降り注ぐレーザーの一斉掃射で消えていくリリスのデコイ。

左足を地面に突き刺し、急激なターン。コアスーツで頑強にフォローされている筈の左足の筋繊維が引き千切れる音が聞こえた。

腰にぶら下がった高速振動ブレードを抜き様になぎ払う。アイカの首めがけて。

ゴツンという確かな手応え。視界の片隅を舞う彼女の首。

表情もないままに。

まだだ。アイカの意識を完全に断つまでは終わらない。

右足で地面を串刺しにしてターン。筋繊維が断末魔をあげる。覚醒したナノマシンは治療には使えない。これでまともに立つことすらできなくなる。

最後の一撃。

ブレードを逆手に持ち替えて、宙を舞う首の眉間に突き立てる。

「アキト……」

アイカの声が聞こえた気がした。

 

気が付くとリリスの膝の上で仰向けに倒れていた。

真上から覗き込むリリスの端正な顔に驚いたが、全くと言っていいほど身体が動かない。

リリス……」

辛うじて絞り出した声にリリスが微笑む。

「なんとかなりましたね」

そう、なんとか生き残ったようだ。

「作戦完了予定時間を過ぎましたので、通信が回復しています」

「お迎えに来てくれるわけか」

「はい」

リリスの顔の向こうに星空が見える。

視線に気づいたのか、リリスも満天の星空を見上げた。

「迎えが来るまで、もうしばらくお休み下さい」

「わかった」

なぜリリスがオレに膝枕をしてくれているのかは分からない。

果たして、これもオレを労うようにプログラミングされたヒューマノイドの行動パターンなのだろうか。

それとも……。

オレの記憶を持ったアイカに似たヒューマノイド

死んだはずのアイカ。その蘇生。

まるで本物の人間のような行動と言動。

リリス、お前も……」

「はい?なんでしょう?」

リリスがオレの顔を覗き込む。

その疑念は危険だ。打ち消す。

「いや、なんでもない」

「……はい」

人の死とは何なのか?

脳さえ生きていれば、人は生きていると言えるのだろうか?

まとまらない思考は、そのままオレを眠りの奈落へと引きずり込んでいった。

 

——了——

※2015年冬コミ 創作集団スターボード 三題話シリーズ「元カノ三題話」寄稿作品です。

※※だいたい伊藤計劃のせい。

 

龍の泉-7

 祠に手を合わせて聞いてみたけれど、やっぱり答えはどこからも返ってはこなかった。

 リカコは思う。やっぱりあのお爺さんの言う通りに龍之介にも聞かなきゃ。

 リカコは龍之介が入った小さな水槽を手にして岩場の対岸へと向かった。泉の入り口側から回りこんで、急勾配になる斜面と泉の間にある小さな岸に立つ。水槽を地面に置いて蓋を取ると、龍之介はのんびりと水に浮いていた。

 リカコは龍之介の柔らかな体をそっとすくう。目の前に持ってきて、心の中で語りかける。

 ねぇ。龍之介はどう思うの?

 もちろん、龍之介からの返事はない。

 キミも、あたしと離れてしまうのはつらいのかな?

 リカコは龍之介を泉へと下ろした。龍之介は泉の水面を漂って、しばらくじっとしているようだったが、不意に向きを変えるとリカコに顔をあげた。そして短い手足をジタバタとさせてリカコの居る岸へと泳ぎだした。

 その姿が、あの冬の日の子猫の姿と被る。

「そっか」

 リカコは龍之介をすくい上げる。

 大人になるには強くなければいけないと思っていた。独りで歩いて初めてその強さを得られるのだと思い込んでいた。けれどもその強さは大切な人と別れてまで手に入れなければならないものではない。決して。

「キミもゆっくりでいいんだね」

 リカコはそうつぶやいて龍之介を再び小さな水槽の中へと入れた。

 その瞬間。ドパーンと派手な音を立てて泉から盛大な水しぶきが上がった。そのあまりの勢いに悲鳴をあげる。中空に跳ね上げられた水しぶきが、ザッと音を立ててリカコに降り注いだ。小さな水槽を抱きかかえるようにして身をひねるとバランスが崩れて、リカコは後ろの傾斜の方に派手に転んだ。

 それでいい。

 そんな声が聞こえた気がした。

 そんなに背伸びしなくても大丈夫だから。

 声のした方向、泉の上を見ると、今まで見たこともないようなはっきりとした虹がかかっていた。リカコはその虹を見上げる。

 そっか、これでいいんだ。

 どこからともなく聞こえてきた声に納得する。あんなに大人になりたいと強く願っていた自分が馬鹿みたいだと思える。

 リカコは虹を見上げながら、笑っていた。焦っていた自分を。無駄に力が入ってしまっていた自分を。

 ふと気付くと、対岸の岩場でアキラが声をあげて笑っている。けれども、それはリカコと同じ種類の笑いではなく、リカコの方を指さしながら笑っているようだった。

「何がそんなにおかしい」

 自分の心を笑われたような気がしたリカコはアキラに食って掛かった。

 腹を抱えて笑っていたアキラは苦しそうにこう言った。

「だって、お前、そのかっこ。パンツ見えてんぞ」

 リカコは斜面に寝転んだようになっている自分の姿を見る。転んだ瞬間に腰のあたりまでミニ・スカートの裾がめくれあがっていた。しっかりパンツが見えている。

「わああああああああっ!!」

 リカコは龍之介の入った水槽を置き、慌ててスカートの裾をなおして立ち上がった。アキラは腹を抱えてまだ笑っている。ユウトは赤くなってあらぬ方向を見ていた。恥ずかしさと怒りがリカコを支配した。

「殺す!!!」

 リカコは対岸に向かって走った。動揺したアキラとユウトは反射的に逃げ出そうとしたが、逃げ道はリカコが鬼の形相で迫って来ている側の遊歩道へ登る入り口しかない。

「ちょっと待て!!」

「なんでボクまで!!」

 リカコは二人の抗議を全く無視して横薙ぎに蹴りを繰り出す。リカコの蹴りは、ガードした腕ごとユウトの胴体を見事に吹き飛ばし、リカコの蹴りをかわした筈のアキラまでも巻き込んで、二人まとめて泉の中へ叩き込む。派手な音と水しぶきがあがった。

「参ったか!!」

 リカコは仁王立ちになって、泉に落ちた二人を見下ろす。二人は浅い泉からのろのろと立ち上がってきた。

「ひっでぇ……」

 濡れネズミになったアキラが抗議したが、リカコはその声をスルーして、笑いながら木々の間からこぼれ落ちる5月の陽射しを見上げた。

 不思議と気分は良かった。

 泉の上には、また虹がかかっていた。

 

 そして、びしょ濡れのまま家に返ったユウトは風邪を引いて寝込んだ。

 アキラはサッカーのゴールネットを拝借した小学校の先生達から呼び出しを食らったが、適当な理由をでっちあげて口八丁で丸め込んだ。

 龍之介はリカコの部屋にある水槽の中で平和そうに浮かんでいる。

 三人が龍之介と一緒に行ったあの泉は、その後になって探しに行っても、決して辿り着く事はできなかった。

龍の泉-6

 見たこともない光景が目の前に広がっていた。

 5月の強い陽射しは青々と茂った常葉樹にその殆どを遮られ、その間からこぼれ落ちた光は、フィルターを透過したかのように緑と青を強めている。彩られた光はこんこんと湧き上がる泉の水面に落ち、仄かに青いきらめきを放ちながら反射して澄んだ空気へと四散していく。下生えの草達は、まるで泉の周りだけ遠慮をするかのように控えめにしか生えていない。遊歩道から外れて谷あいからしか入れない唯一の入り口には木々が鬱蒼と茂り、まるでそこの空間だけを人の目から隠しているようにも見える。入って右手の傾斜の方は、少しばかり平らな岸があり回り込めるようになっている。対岸は崖。途中から妙な角度で伸びている樹木が、その緑の葉を垂らして水面に映えている。左手側は岩場になっていて、ここから湧いた水は巨大な岩と岩の隙間へと消えて行っているようだ。

 自分のイノシシ捕獲作戦が全くの無駄になって少々むくれていたアキラは、この光景を目の当たりにするなり自分の不機嫌さを忘れた。

「すげぇ……」

 呆然としてつぶやく。

 アキラの後をついてきていたリカコとユウトは、泉に見とれていたアキラをいつの間にか追い越して、泉のほとりにたどり着いていた。アキラも我に返って二人の後を追う。

「ここが龍ヶ渕?」

 いや、違う。アキラには確信があった。確かに龍ヶ渕へ行くルートを辿りスマホの位置情報サービスも間違いなくここを龍ヶ渕だと指してはいるが、ここは龍ヶ渕ではない。

「ここじゃない」

 慎重でゆっくりとした、しかし確信に満ちたアキラの声に、泉しか見えていなかった二人が振り返る。

 確かにここは龍ヶ渕ではない。以前に父親と来た龍ヶ渕はこんな感じではなかった事をアキラははっきりと覚えている。もっと大きかったし、もっと暗く鬱蒼としていた。何よりも龍ヶ渕は川が流れこむ渕なのであって、水が湧き出る泉ではないのだ。

「じゃぁ、ここは?」

 リカコが泉へと視線を戻す。

「わからない」

 アキラは正直に答えた。

「なんだそれ……どういうこと?」

 ユウトがポケットから自分のスマホを取り出してロックを解除する。操作してじっと見た後、アキラに目を向ける。

「龍ヶ渕だろ、ここ」

 自分達の居る場所を確認したようだ。アキラに向かって歩きだそうとしたその瞬間、左手の岩場から声がした。

「何をしているんだい?」

 ゆったりとした優しい声だった。そこに人が居るとは思わなかった三人の視線が一斉に岩場の上へと集まる。岩場の上には見事なヒゲをした、白髪の老人が釣り糸を垂らしていた。白のちりめんに紺のトンボが描かれた作務衣を着たその老人はゆっくりと釣り竿をあげると岩場から三人の姿を見下ろしている。

「ここは龍ヶ渕ですか?」

 アキラが前に進み出て、自分達が感じている疑問を口にした。

 老人は驚いたようにアキラ達を見て、そして穏やかに微笑む。

「ここは龍ヶ渕ではないな」

「おい、アキラ」

 ユウトはアキラに説明を求めようとする。場所は間違いなくそうだ。だが、唯一龍ヶ渕に来たことがあるアキラには、ここは見覚えのない不思議な場所だとしか映っていない。

「じゃあ、ここはどこですか?」

「名前はないんだよ」

 老人はニコニコと笑いながら立ち上がる。脇にどけた釣り竿と竹で編んだビクを手に持ち、岩の裂け目に作られたらしい階段を伝って1メートルほどの高さもある巨岩から危なげない歩調で降りてくる。

 リカコはリュックサックを足元に降ろして、龍之介が入った小さな水槽を取り出した。

「それはなんだい?」

 老人はリカコが手に持つ水槽に興味を持ったようだった。

「龍之介っていいます。ウーパールーパーの」

「ほうほう」

 老人はリカコが持つ水槽をのぞき込むと、しばらくじっと見ていた。誰も何も喋らなかった。

「それで、この龍之介がどうしたんだい?」

 龍之介から目を離した老人はリカコの顔をのぞき込んでニッコリと笑った。

 リカコはこれまでの話をし始めた。龍之介を龍ヶ渕へと連れて来たかった理由、イノシシの妨害、真夜中の学校侵入、イノシシの捕獲計画。老人は、うなずきながら、時折絶妙なタイミングで相槌をうちながら聞いていた。

「ここには、龍之介は住めないのかな?」

 リカコは老人への質問でその話を締めくくった。

「さぁて、どうかな」

 いつの間にか三人は老人を囲んで岩場の上に座っている。老人が、足腰が弱ってキツいのでな、と言った言葉だけが妙にアキラの頭の中に残っていた。

「住めないのかな……」

 リカコのかすれた力のない声に、ユウトが泉を覗きこんだ。

「水は綺麗だし魚もいるし龍之介の餌になりそうな苔や微生物もいっぱいいると思うんだけど……」

 アキラもユウトの言葉に釣られて泉を覗き込む。黒い小さな影が、素早く泳いでいるのが泉の水面に映っている。確かに両生類が住み着くにはとてもあっている場所だと思えるし、とても素敵な場所だとも思えた。アキラは、本来の目的地がこの泉ではなく、龍ヶ渕だという余計なツッコミは言わないようにしようと思った。

「住めるとは思うんだがな」

 泉の方を見て老人は穏やかに微笑む。それは確かに穏やかなものだったが、どこか哀しげで寂しそうな表情だとアキラには感じられた。

「龍之介に聞いてみるのもいいと思うぞ」

 老人は三人に視線を戻し、確認するかのように言った。

「龍之介に?」

「そうだ。誰と一緒にいたいか?どこに住みたいか?は龍之介にも希望があるんじゃないのかな」

 そう言うと老人は釣り竿と魚篭を持って立ち上がった。三人のまるで問いかけるかのような視線に微笑みながら、座ったままのリカコの頭に手を置く。

「龍之介を大人にさせたいのは分かる。だけど龍之介はどうなのかな?」

 老人の穏やかな声がアキラの胸にも響いた。

 そうだ。かっこいい大人になりたいのは龍之介じゃなかったんだ。アキラは唐突に気付いた。それはリカコの願望であり、自分達の願望だったんだと。リカコもアキラも、はやくかっこいい大人になりたいという自分達の願望を龍之介に背負わせようとしていただけなのかもしれない。そう思った。その一方でユウトがこの話にあまり乗り気になれない理由も分かった気がした。ユウトは環境の変化に敏感だ。そこまで無理をして背伸びをしてまで大人にならなくてもいいと感じているのかもしれない。

 老人を見上げていたリカコがうつむいた。リカコもそれに気付いたようだ。

「そんなに慌てる必要はないんじゃないかな」

 ゆっくりと言い聞かせるような言葉が胸にしみる。

 老人は泉から立ち去ろうとしていた。泉から遊歩道へ登る入り口に立って、ゆっくりと振り返った。

「君達ならきっと大丈夫だよ」

 その笑顔は優しさに満ちている。

「よかったら後ろにある祠にお参りして行きなさい。何か答えが見つかるかもしれないから」

 アキラは後ろを振り返る。確かに岩場の奥まった場所に小さな祠があった。

立ち上がって祠の前に行く。古く苔むした小さな祠。そこには読みにくい風化した文字で文字が彫られていた。指でなぞると「竜王吼菩薩」と彫られているのが分かる。

 アキラが泉の入り口を振り返ると老人はもう居なかった。

「お参りする?」

 ユウトがつぶやくようにリカコとアキラに聞いた。

「うん」

 すっかりしおらしくなってしまったリカコがうなずきながら返事をする。

 三人はひざまずき、古い祠に手を合わせた。

龍の泉-5

 アキラが練った作戦はこういったものだった。

 まず、イノシシが出た見晴らしのよい丘から、100メートルほど下った所にゴールネットで罠を作る。アキラは昨日下山する時にしっかり地形を確認していたようだ。

 そこには竹林があり、吊り上げ式の罠を作るのには、最適な場所だという事だった。竹で覆われた遊歩道から分かれる獣道に入ってすぐの場所にちょうど開けた場所があり、曲げてしならせた二本の竹をザイルとテントのピックで固定しゴールネットの両端を竹の先に結いつけた。固定したテントピックと竹を結んでいるザイルは丈夫なものだが、急には切れないため罠としてはそのまま使えない。そこでカラビナとボルトとナットですぐに外せるように工夫をしている。

「ただし、難しい問題がひとつだけある」

 アキラはユウトの部屋で真面目くさった顔をしながらそう言った。

「囮役を誰がやるか、だ」

 アキラの練った計画は、どのようにしてイノシシをそこまで連れてくるかが問題になっていた。決してそこが抜けていたわけではない。イノシシは、雑食であるため餌で罠にかかってくれるとは思えなかったのだ。だとすれば襲われたふりをしながら罠の場所まで誘導する囮役が必要となる。

「あたしが……」

「いや、オレがやる」

 リカコがそう言おうとしたのを遮ってアキラがきっぱりと宣言した。

「だけど、この計画を練ったのはアキラじゃないか」

 抗議の声を上げたが、他に適役がいないのはユウトもよく分かっていた。

「この中で一番体力があって、一番脚が速いのは誰だ?」

 そう言われると、アキラしかこの役をこなせるのはいない。ユウトは自分が論外だということはよく分かっていたし、リカコも空手で鍛え上げた体力と筋力はあるものの、生まれながらにして体格に恵まれた上に、山野を駆けまわって奔放に鍛えてきたアキラには敵わない。結局リカコも渋々だったがそれに従う形になった。

 アキラはイノシシが追ってこない事も考えて、ガス式のエアガンを持ち、イノシシを発見次第、エアガンで怒りを買うという形で罠まで引きつける。リカコは強力な水鉄砲を持ち、中にハバネロまるまる一瓶を水で薄めた危険な銃で罠に突っ込んできたイノシシの顔面を狙って、アキラの援護とする。そして、ユウトは竹と地面を繋ぐ罠のジョイント部分を外す役となった。

 うまく行けば、イノシシはサッカーゴールのネットで吊り上げられて見事捕獲となり、リベンジは果たされるといった寸法だ。

 ユウトは、遊歩道から少し離れた獣道の付近の繁みに身を隠し、落ち葉や下生えの草で巧妙に隠されたゴールネットを見つめながら、アキラの計画がうまく行かなかった時の事を考えている。隣にはハバネロウォーターガンを構え、ユウトと同じように息を潜めているリカコが居る。

 アキラが罠を通過する前に、イノシシに追いつかれたらどうするのだろう?ほぼ同時に罠に脚を踏み入れたらどうするのだろう?罠が作動しなかったらどうするのだろう?アキラはイノシシに勝てるのだろうか?いやそのためにリカコのハバネロウォーターガンがある。だが、リカコが狙いを外した場合どうするのだろう?かといって、お祭りの縁日の射的ですらまともに当てることができないユウトがリカコに代わってハバネロウォーターガンで狙えるはずもない。それは三人共よくわかっていることだ。思いは堂々巡りする。

 ユウトはふとリカコを見た。遊歩道から獣道へ入る入り口の辺りをじっと見ている。昨日のイノシシとの戦いの影響もあるだろうか。打って変わってアウトドア風になったリカコの格好は丈夫なモスグリーンのアーミーシャツに、脛の半ばまであるゴツい黒のジャングルブーツだ。ただ、ユウトがよく分からないと思うのはそんな格好なのに黒いニーハイと黒のミニ・スカートだという事だ。この辺は女の子だといったところなのだろうか。そういうこだわりがユウトにはよく分からない。

 リカコはユウトが見ているのも気づかない。風が下生えの繁みを揺らす。それと同時にリカコの髪も揺れる。手を伸ばせば届く距離。昨日の事を思い出す。夢中でリカコにしがみついた。その感触。幼馴染。体温を感じる事ができる程の近い距離。自分の心臓の音が、いやにはっきりと聞こえてくる。ショートカットの髪型から覗く白いうなじ。いや、違う。そんな事じゃない。そんな事を考えている場合じゃないぞ。アキラはまだか?まだ来ないのか。今はイノシシに、罠に集中しなきゃ。

 リカコが息を呑み、身を固くした。ユウトは自分の考えがリカコにバレたのではないかと心配したが、リカコが獣道の入り口をじっと見ながらユウトの裾を引っ張ったためそれは間違いだとすぐに分かった。リカコの視線の先を追いかけてみると動くものがある。イノシシだった。しかも、やや小さい子どもたちと一緒に獣道へと入って来ていた。

 アキラはどうしたのだろう?

 ユウトはアキラが既にイノシシに倒されたのではないのかと心配になった。

「アキラは……」

 ユウトが不安をそのまま口にすると、リカコはイノシシを見たまま答えた。

「たぶん、すれ違っちゃったんじゃないかな」

 確かに、イノシシの様子を見ると全く興奮している様子はない。アキラと鉢合わせたとすれば、アキラはイノシシを自分に引きつけるためにエアガンで撃っているだろうし、エアガンで撃たれているのであれば、イノシシの方もあれほど穏やかに子供連れで歩いてなどいないだろう。

「どうする?」

 ユウトはリカコの言いたいことがすぐに分かった。あんな穏やかな雰囲気で歩いているイノシシの家族を罠にかけることができるのか?

「やめよう」

「うん」

 いつも優柔不断で迷ってばかりいる自分の性格を良く知っているユウトは、自分の明確な意思でリカコにはっきりとそう言った自分に驚いていた。そしてその判断が決して間違ったものではないという確信もあった。

 イノシシの親子を見ているリカコの横顔。ユウトはそれを見ながら去年の冬に見かけたリカコの表情を思い出していた。

 冷たい雨が降る中、車に轢かれた親猫に向かって必死に鳴いている子猫達。

事故で母を亡くしたリカコはその光景をどんな思いで見つめていたのだろう。きつく結ばれた口元に、全てを拒否するかのような強い思いをたたえて立つその姿はユウトにとってあまりにも近寄りがたく、何もできないままその場を離れることしかできなかった。

 けれども、今は違う。ユウトはリカコの隣にが居る。だからユウトの思いを聞いたのだ。あの親子を自分達の都合で離れ離れにさせる事はできない。その判断は間違っていない。リカコがどんな思いでイノシシ達を見ているかは分からないけれども、決して間違っていない。アキラの計画はイノシシを殺してしまうものではないのだけれども。

 イノシシの家族を見たまま、リカコの手がゆっくりとユウトに向けて差し出された。ユウトはそれはリカコが助けを求めている手のような気がした。

 助けたい。強くそう思った。

 ユウトは激しくなる自分の心臓の音を聞きながら、その手のひらをしっかりと握りしめた。



龍の泉-4

「我々の名誉を挽回するには、リベンジしかないのであるっ!!」

 月越山からボロボロになって帰って来た明くる朝、アキラはユウトの部屋で立ち上がってそう叫んだ。

 龍ヶ渕を目指した月越山アタックに挫折した三人はイノシシの強襲に遭遇、撤退を余儀なくされた。思いにもよらないユウトの横槍によって、イノシシと戦わずして退かざるを得なかったリカコの口惜しさは、アキラやユウトの比ではなく、リカコは夕飯が大好きだったシチューにも関わらず手を付けず、龍之介と部屋に閉じこもったっきり一歩も外に出なかった程だ。

「明日なんとかする。だから今日はもう休め」

 なんだか妙に大人じみたセリフで、どこかの漫画かアニメから借りてきたものなのかな?とも思ったし、自分は役に立たないんだと言われている様でなんだか無性に悔しかったが、帰り際にきっぱりりとそう言い切ったアキラの言葉を信じてリカコは素直に眠った。龍之介が入った水槽の前で。

 隣の家のアキラの部屋で夜遅くまで電気が灯っていたので、アキラは何かをやっているようだった。こういう事柄に関してアキラは天才的とも思えるアイディアと実行力を発揮する。そういうところは素直に凄いと思うのだが、自分には空手なんていうガサツな部分でしかアキラに勝てないのだと思うとなんだか凹む。アキラの指示はいつも大人顔負けでとても的確だ。アキラが何も言ってこないということは、おそらくリカコがやるべき事はないのだと思って、出来るだけ気にしない事にして休むようにした。今考えると、そのわざとらしい言葉もアキラの優しさだったのかもしれないと思う。

 アキラの真意はどうであれ、リカコは空手の試合に負けた時と同じような悔しさに襲われていたものの、思った以上に疲れていたらしく、朝まで目覚める事もなくぐっすりと眠れていた。コンディションは上々と言ってもいい。幸い、丘から転げ落ちた時にも、ユウトを下に転がったせいかリカコにはどこにも怪我はなかった。その代わりユウトは青あざだらけになっていたが、それは決してリカコが殴ったからというだけではない。

 そして朝。アキラから招集の声がかかった。朝8時。なぜかユウトの部屋。リカコがユウトの部屋に入ると既にアキラはそこに居た。黄緑色でなにやら重そうなザックをユウトの部屋に運び込んでいる。そのザックの横でなぜかユウトが物凄く不機嫌そうな顔でそっぽを向いている。リカコはその様子だけで、昨夜アキラとユウトは二人で何かやらかしたのだと直感的に悟った。

 リカコがユウトの部屋に入ってくるなり、アキラは立ち上がって高らかに宣言をしたというわけだった。

「いよっしゃぁ!リベンジだ!!」

 リカコにしてもこういうアキラの性格は慣れているので、勢いに乗っかるのはさほど難しくはない。それよりも問題なのはアキラの横にある大げさなザックだ。アキラのことだ。昨夜のうちに用意した対イノシシ用の秘密兵器に違いない。

「このザックはなんなの?」

 アキラはリカコの反応にドヤ顔になってニヤリと笑った。横にいるユウトは先ほどよりも増してぶすくれた顔になっている。

「ふっふっふっ」

 アキラはノリノリでリカコの前で人差し指なんかを振っている。明らかに何らかのアニメか漫画の影響を受けているとしか思えない。

「聞いて驚け、これが対イノシシ用の秘密兵器だッ!」

「ふーん」

 大げさにセリフを吐いたアキラは、リカコの軽い返事にコケそうになる。

「なんだよ!秘密兵器だぞ!秘密兵器!」

 人の心には敏感なくせに、こういうところがほんっと馬鹿なんだよなー、と思いながらリカコはザックの方ににじり寄る。

「問題なのは中身」

 リカコがザックの中身を引っ張りだすとそれは黒いネットだった。

「なにこれ?」

「サッカーゴールのネット」

 アキラの代わりに先ほどからずっとぶすくれて黙っていたユウトが答えた。

「サッカーのぉ?!」

 リカコは自分の声を出した途端こらえきれなくなって吹き出した。大きな荷物と、アキラのニヤニヤ笑いと、ユウトの膨れっ面。それらが全部リカコの中で、ジグソーパズルのピースのように組み上がった。笑いが止まらない。そんなリカコの様子を見ているアキラは、やっぱりニヤニヤ笑いながらドヤ顔をしているし、ユウトはやっぱり仏頂面をしている。

「何がそんなにおかしいんだよ」

 ユウトがボソリとつぶやくように言う。

「ゴールネットって、バカじゃないの」

 リカコはなんとかそれだけを言葉にする。それでも笑いは止まらない。

「バカって言うな」

 唇を尖らせてそう答えるユウトは明らかにバカであることを自覚している。

 近所にサッカーゴールがあるところは、限られている。小学校、中学校、そしてコミュニティセンターの三つしかない。

 コミュニティセンターにあるゴールネットは普段は外されており、必要な時にしかゴールに取り付けられない。必要ない時は取り外されて、建物の中にある倉庫に眠っている。中学校のゴールネットは古くてボロボロ。だとすると、正解は残りのひとつしかない。小学校のゴールネットだ。

「あー、おかしい。学校には許可もらってないくせに」

 ようやく収まって来た笑いをおさえながらリカコが言う。涙を浮かべて、腹をかかえている。アキラの無茶はいつもの事の筈なのに、よっぽど笑いのツボにハマったらしい。

「許可なんか取るわけねぇし」

 アキラはニヤニヤ笑いを張り付かせたまま床に座り込んだ。

「なんでアキラの犯罪に、ボクが付き合わされなきゃいけないんだ」

 ユウトのふてくされた態度の原因はそこだ。つまり、二人で深夜の小学校に忍び込み、サッカーゴールネットをひっぺがして持って来てしまったのだ。

「そう言うなって。ちゃんと返すし」

「そういう問題じゃないっ!」

 キレそうになるユウトにリカコは笑顔を向ける。ユウトの左肩に手を置く。

「なんとかなるって」

「なんとかならなかったらどうするんだよ」

 どうやら笑顔では誤魔化されてくれないらしい。

「なんとかするんだよ」

 アキラが右肩に手を置いてにこやかに言った。

 ユウトは深い溜め息をつくしかなかった。



龍の泉-3

 目の前に青空が広がっている。視線を下に移すと、そこにはいつもは自分たちが生活している街が見下ろせる。三人が住んでいる幟町(のぼりまち)だ。その幟町の真ん中を横切るようにして龍玉川が流れている。三人の足元、山の麓から緩やかなカーブを描いて龍玉川に流れているのが髭川だ。それらの川面が、空と陽光に照らされて銀色に輝いているのが見える。まるで銀の龍が幟町を横切って行こうとするかのように。

 新緑の中をやや涼しい風が横切って行く。風は緑の葉を揺らし、見晴らしのよい野原を駆けて、アキラの頬をかすめて通り過ぎる。風が気持ちいい。カラリと晴れた5月の空気は、灼熱の日差しとは程遠く、空気もどことなく澄んでいるように感じられる。

アキラはペットボトルの蓋を開けて、勢い良く喉に流し込んだ。

 そのアキラの右横の地面にはユウトがへたり込んでいる。リカコは左手にある少し高くなった見晴らしのいい場所で伸びをしている。

「ユウト、完全に運動不足だな」

 笑いながら冗談っぽく言ったものの、その言葉がユウトをムキにさせる事は知っている。

「悪かったな」

 ふてくされるユウトにアキラは顎でリカコをさす。

「わかってるよ」

 ユウトは地面に転がっているトレッキングステッキとペットボトルを勢い良くつかんで立ち上がった。一応ユウトにも男の意地というものはあるのだ。

 ま、あいつは別格だけどな。

 アキラは心の中でそう呟いて、ペットボトルをポケットにねじ込む。

「なにしろ鍛え方が違うからなぁ」

 リカコの方へとしっかりした足取りで歩いて行くユウトの背中を見ながらアキラは苦笑する。ユウトに気合いを入れさせるためのこのやり方は、相手がリカコだからこそ使えるやり方なんだとアキラは知っている。ユウト本人ですらその事に気づいていないだろう。それもアキラの性格の為せる業だ。

 けれどもアキラはそんな人の動かし方の危うさを嫌というほど知っている。早いうちから父親の事務所に遊びで出入りするようになったアキラは自分の父親が部下の感情を見ながら、上手にやる気を引き出している事に気付いた。それを自分に当てはめてみると、アキラ自身も父親に感情を見ながら話かけられていた。初めは嫌悪感しかなかった。だが、しばらくすると父親のやり方に吐き気がするほどの憤りを覚えた。自分は父の操り人形ではないと思った。しかし、そんな苦しい日々は長くは続かなかった。自分の父親が何の為にそんな事をやっているのか、それをアキラに直接教えてくれたからだった。

 今のアキラなら分かる。時と場所を間違えない言葉は、人の励みになる。そして時と場所と言葉を間違えず、人の最大限の力を発揮させる事ができるのが、人の上に立つことができる大人なんだと。

 しっかりと靴紐を結び直すと、アキラはユウトの背を追いかけるようにして足を踏み出した。視線はリカコが立っている丘の方を向いている。

 ふと、リカコの後ろの茂みが不自然にざわざわと揺れた。

 何だ?

 アキラが目を凝らすと茂みの奥に黒い影がちらりと見動く。

 クマ?!

 先日新聞の地方欄の片隅に載っていた「ツキノワグマの足跡見つかる」というタイトルを冠した記事がアキラの脳裏をかすめた。

「リカコ!後ろ!!」

 ほぼ同時に気付いたらしいユウトが大声で叫ぶ。リカコが後ろを振り返って茂みを見る。リカコもその茂みに何かが潜んでいることに気づいたようだ。

 次の瞬間、アキラは信じられない光景を目にすることになった。リカコがじっと茂みに視線を向けたまま、背負ったリュックサックをゆっくりと下ろしたのだ。

 リカコはリュックサックの頭部をポンポンと二度叩く。まるで、その中に居る龍之介を安心させるかのように。そして素早く脚を開き、腰を落とした。

「は?」

 アキラは呆然と脚を止めてリカコの姿をまじまじと見つめた。

 リカコは顔の前で両腕を交差して、息を吐きながら拳を腰の両脇へと引き絞っていく。空手の息吹だ。

「ばっかじゃねぇの?!」

 我に返ったアキラが慌ててもう一度、リカコに向かって走りだす。その声に我に返ったユウトも同じく走りだす。

「我が迎撃拳に、迎え撃てぬ攻撃なしッ!!!」

 リカコの雄叫びに反応するかのように茂みから巨大な黒い影が飛び出した。

「わああああああああああああああああああああああっ!!!」

 黒い影が踊るようにして、リカコの方へと方向を変えた。リカコの眼前に黒い影が迫る。リカコがタイミングを合わせようと、右の拳をすっと引いた瞬間、まさにそのタイミングでユウトがリカコに胴タックルをかけた。

「ぎゃあああああああああああああああああああああっ!!!」

 ユウトから胴タックルを食らったリカコはもんどりうって倒れ、なだらかな丘の上からアキラの視界の向こう側へと二人揃って転がり落ちて行った。

 その直後、黒い影が猛烈なスピードで走り抜けた。その姿は熊よりもずっと低く小さい。

 イノシシ?

 熊よりも小さいとはいえ、襲われてはひとたまりもない。いくら空手が強かろうが、迎撃拳に迎え撃てぬ攻撃がなかろうがそれは人相手であればこそ。動物相手に空手で打ち勝ったなんていうのは空手の達人クラスの話である。ましてや中学生で女の子であるリカコが勝てるわけがない。

 イノシシは転がり落ちた二人を無視するかのように、恐ろしいスピードでアキラの視界の隅へと消え去っていった。

「ユウト!!ナイス!!!」

 一命を取り留めた二人の姿を確かめようとアキラが丘の上に走り寄る。

「ユウト!おい!ユウト!」

 リカコの叫びが聞こえる。さては頭でも打って気でも失ったのか。

 慌てて丘の上に辿り着いたアキラが目にしたのは、気の抜けた光景だった。

 ユウトはまだリカコの腰に抱きついていた。そのユウトの頭を、リカコは叫びながら拳の腹でポカポカと殴っていた。

「アホ!ユウトのバカ!スケベ!変態!!ロリコン!!!」

 その様子があまりにもおかしかったアキラは、思わず吹き出した。

「アキラ!笑ってんじゃない!!!こいつひっぺがしてよ!!!」

 ポカポカと頭を殴られてもユウトはまだリカコの腰にしがみついていた。